明治元年英式兵制の採用せらるゝや、軍事教育の規模又擴張す。即ち九月十三日を以て壯猶館と經武館とを合併し、之を學校總裁の支配に屬せしめて學政の統一を圖り、壯猶館を以て主として歩兵小銃練習の所となし、經武館に於ける舊式武術は凡べてこれを廢し、その建築物を藩侯世子前田利嗣の居館に當て、別に構内に、騎兵塾所並びに厩舍たる群龍館(一名群龍舍)、喇叭稽古場たる威震館、歩兵小銃稽古場たる懷忠館、大炮稽古場たる震天館、兵學並びに算術稽古場たる飛雲館(一名元雲館)を置きて悉く士族の武學校とし、城内なる御普請會所を改めて雄飛館となし、卒族の大炮・小銃及び喇叭稽古場に當てたりき。これ等は皆相繼いで計畫造營せられ、その全く成れるは二年三月に在り。上記の外別に、明治元年以降壯猶館の管轄を離れて、海防方に屬したる七尾軍艦所・西町軍艦所・小立野彈藥所・牛坂村彈藥所・土清水製造所・小柳村製造所・鈴見村製造所ありて、藩の軍備と軍需とは共に頗る充實したりき。二年一月又壯猶館内に英學所を設立し、幾くもなく之を元御細工所に移し、改めて致遠館といへり。その後航海術を教授するが爲に、鉤深館を壯猶館内に設け、次いで之を西町軍艦所内に移せり。壯猶館以下群龍・威震・懷忠・震天・飛雲・雄飛の諸館は、明治三年佛式兵制採用せられて、一面には士官養成所たる齊勇館の設立せられ、一面には常備軍隊の組織せらるゝに及び悉く閉鎖するに至れり。