齊勇館は、明治三年三月英式兵制を佛式に變じ、兵隊の屯所を置くに至り、急に幹部たるべき士官を養成せざるべからざる必要を生じたるを以て、十一月城内二の丸に於ける舊藩侯の殿閣内に學校を設立し、十二月二十日命名したるに起る。該館の主付は藤勉一にして、教師は舊幕府の士官横田豐三郎外一名なりき。然るにこゝに收容せられたる生徒の卒業し、士官又は下士となりて隊付を命ぜらるゝや、復之を養成する必要を見ざるに至りたるを以て、直に齊勇館を閉鎖することゝせり。當時の兵營は、初め長町なる老臣村井氏の舊邸に置きしが、後に老臣横山氏の舊邸・元壯猶館跡・元齊勇館跡・松原町神護寺内等に配置せり。この中横山屯所は衞戍組織にして、その他は兵士の日々通勤するものとし、別に小立野なる老臣奧村氏の舊邸に炮兵の兵舍ありき。 道濟館は明治元年の創立に係る。初め慶應元年洋學に志し、稍その書を讀み得るもの十名許を擇び、藩費を以て横濱に派遣し、隨意に師を擇び友を求めて研究せしめしが、當時かの地に於いても尚洋學に堪能なる者少數にして、纔かに米國宣教師等を訪ひて之を學び得るに過ぎざりき。後石州津和野藩士吉木順吉なるものありて、佛語に通じ兼て漢籍を解するを知りしを以て、留學の諸生等江戸の下谷に一民家を借り、順吉を聘して教師たらしめ、之に就きて佛語を傳習することゝせり。然るに明治元年鳥羽・伏見の役後、諸生等皆藩命によりて召還せられたりしかば、黒川誠一郎等は相謀りて閏四月順吉を金澤に招き、南町なる狂言師疊屋九郎兵衞の家を假用し、その能舞臺を以て講堂に宛て、道濟館と號して佛語・漢語の教授を開始せり。この時藩は順吉に對して祿米を給せんとの意を傳へたりしも、順吉は之を固辭したりしを以て、町會所より手當金若干を與へたりき。同年十月順吉の金澤を去るに及び、藩士菊池七郎代りて佛語教授の任に當り、柴木昌之進(後昌平)・平田宇一は英學を、名越甚助は漢學を、下村貫一は數學を、橋健堂は習字を教授し、翌二年一月規則を改正し、二月幼年英學生を壯猶館内の英學所に移す。尋いで道濟館に殘留したる英學生全部を城内元會所跡に移し、之を挹注館と號す。道濟館の佛語學生は其後高岡町なる今枝民部の邸に轉ぜしが、程なく廢絶せり。