道濟館の學科は洋學・漢學・數學・習字の四科にして、教科用書には綴書・讀本・文典・地理・歴史に關するものを用ひたり。教授の方法は句讀・會讀・聽講にして、時間割・試業法・入學期限等の規定は一も設くることなし。教員の數は常に五六人を超えず。生徒は最も盛なりし時に於いて七八十名に及び、寄宿及び通學の別ありて、寄宿の費用は生徒の自辨する所なれども、束脩・謝儀は全く之を要することなかりき。 致遠館は明治二年の創立に係る。この年二月道濟館生徒中、七歳乃至十七歳のものを選びて壯猶館に入學せしめ、之を稱して英學所といひ、三宅復一(江戸人、後醫學博士三宅秀)・關澤孝三郎(後水産局長關澤明清)・岡田秀之助(後岡田一六)をして英學・數學を、橋健堂をして漢學・習字を教授せしむ。蓋し道濟館に於いて教授せし所の英語は頗る變則なりしを以て、かくの如き教授法はドウセ、イカンと罵倒するものすらあり。是に於いて當時壯猶館飜譯方たりし三宅復一は、新たに英國より歸朝したる岡田秀之助・關澤孝三郎と謀り、正則英語の外に漢學・數學・習字を加へ、その漢學用書も亦四書五經を廢し代ふるに蒙求を以てするの大英斷を加へたりき。孝三郎は黒羽織黨の一人たりし關澤房清の子にして、初め壯猶館に蘭學を修め、文久中藩の選拔によりて江戸に留學し、江川太郎左衞門及び村田藏六に就きて學び、次いで長崎に赴き、慶應二年前田慶寧の藩侯となりし時、岡田秀之助と共に英京倫敦に留學を命ぜられ、三ヶ年を經て歸國せしなり。この年八月藩は又米國人英學教師オースボンを聘せりといへども、彼をして城下に居住するを避けしめ、能登七尾町なる軍艦所内に壯猶館英學所の分校を設置して語學所と名づけ、優等生三十餘名を派遣してその教授を受けしめたり。後の工學博士平井晴二郎・海軍大將瓜生外吉・理學博士櫻井錠二・工學博士石黒五十二・理學博士藥學博士高峰讓吉等皆その生徒中より出づ。已にして壯猶館内なる英學所は益盛運を極め、生徒増加して收容する能はざるに至りしを以て、同年城西元御細工所(雍々館跡)に移り、更に松原町神護寺に轉じて致遠館と稱す。三年三宅復一は東京に歸り、福澤諭吉の推薦したる長野桂次郎來りて之に代る。桂次郎は又米田爲八・立石斧次郎とも稱し、文久元年米國に使節を派遣せられし時通辯として隨行したりしものにして、復一の師たりし人なり。同年致遠館は又大手町なる元御普請會所に移り、七尾の語學所と併合してその隆昌を計り、十一月兼六園内の巽御殿に轉じ、城中に在りし挹注館を併せて中學東校となる。而してオースボンは、是より先八月期限滿ちたるを以て解雇せらる。