致遠館の教師は、外國教師一人・英學教師二人・漢學兼習字教師一人・學生方[寄宿取締]二人・小遣二人・賄方二人を定員とす。俸祿は、外國教師の月俸百五十弗にして、その他は年給三十三石以内なり。職俸の外に學校の經費として、一ヶ月約三十圓を要したりといふ。生徒は私費を以て入塾するを要し、その數七八十名あり、通學するを許さず。凡べて束脩又は謝儀を要することなかりき。 挹注館は城内元會所に在りて、明治二年の創設に係る。是より先、道濟館に於いて英佛兩語學を授けしに、生徒漸次増加したりしかば、その英學生を割きて御作事門内なる元會所に移し、是を挹注館といへり。然るに翌三年十一月又致遠館と合併して中學東校となりしを以て、挹注館の存在は其の間僅かに一年に過ぎざりしなり。教師の主なるものは、舊幕臣長野桂次郎・藩士柴木昌之進等にして、綴書・讀本・文典・地理・歴史・日本外史・十八史略等の英漢二科を會讀聽講し、時間割・試驗法等の制定なく、甲書を終れば乙書に移るの類なり。職員には英學教師二人・漢學教師一人・補助教師兩三人・雜務二人・學僕二人・賄方兩三人あり。生徒は大約四五十人にして、寄宿生其の半に居る。寄宿費は生徒之を自辨すといへども、束脩・月謝を要することなく、入學の時期も亦不定なり。 鉤深館は明治二年壯猶館内に附設せられたるに起る。初め壯猶館に於いては航海測量等の學術を講じたりしが、文久二年に至り長州の人戸倉伊八郎を聘して、藩士大坪岩次郎(後改世愼)・河越良輔(初内山震太郎又は角良輔)と共に教授の任に當らしめ、同時に汽船發機丸(後錫懷丸)を購入して實地の航海を練習せしむることゝせり。次いで慶應元年十月前田齊泰は汽船一隻を購ひ名けて李百里丸といひ、十二月帆船有明丸を石川島に建造し、三年五月前田慶寧亦帆船一隻を購ひて駿相丸と名づけ、三年十月帆船起業丸を購ひ、明治元年九月汽船猶龍丸を購ふ。かく船艦の購入使用せられたるが爲に、藩は自ら機關手等の養成を要するに至り、明治二年その志願者を募集して航海測量の技術を演習せしめ、その學校を名づけて鉤深館といへり。本館は後に西町軍艦所内に移轉し、遂に變じて洋算專門の研究所となりしが、その廢止せられたる年月は今之を知ること能はず。