前記諸學校が洋學を主としたるに反し、特に漢學を維持するが爲に設けられたるものあり。明治元年十二月明倫堂の句讀師を廢したる時、その十數名を教師たらしめ、四民に句讀を授くる目的を以て濟々館を大手町元御普請會所跡に設け、雍々館を城西元御細工所跡に置き、共に明倫堂の附屬たらしめしもの即ち是なり。然れども二年十二月四日に至り兩館の漢學句讀を廢したるを以て、その存續期間一年に過ぎざりき。 鑛山學所は明治三年兼六園内元巽御殿に創設せるものにして、閏十月普國イ・フオン・デル・デツケンを聘し、鑛山・金石及び地質學を教授せしめしものなり。デツケン招聘の手續は、曾て加賀藩より英國に留學を命ぜられたる淺津富之助[後南郷茂光]が金澤藩知事代理として交渉の任に當り、兵庫に於いて結約せるものにして、その俸給月額は墨西牙銀三百五十弗に相當する本邦貨幣なり。鑛山學所の生徒は常に十數名に過ぎざりしが、明治四年七月廢藩と共に之を止め、教師デツケンを解約せり。 中學東校は、明治三年十一月金澤藩に於いて中學校教科を皇漢洋三科と定めたるものゝ中、洋學を授くる所にして、兼六園内巽御殿を校舍とし、十二月十七日授業を開始せるものなり。本校の生徒中、舊致遠館より來りしを正則といひ、挹注館より移りしを變則と稱す。正則の英學教師には岡田秀之助、變則の教師には長野桂次郎・柴野昌之進あり。翌四年六月英人エドウイン・サイモンソン來りて正則の英學・數學を教ふ。サイモンソンの雇聘條約は六ヶ月間にして、月俸墨西牙銀二百弗とす。中學東校は七月金澤縣となりし後尚繼續せられ、十一月西校と共に金澤中學校となれり。