中學東校には小學科及び中學科を置き、而してその小學科は漸次之を廢し、小學所を以て代ふるものと豫定せり。學科は正則に綴書・讀本・文典・歴史・地理・窮理・算術・點竄・度量等の初歩を課し、少年には特に日本外史・蒙求等の誦讀並びに千字文・萬國々盡等の習字を授く。入學は時々之を許し、年齡十五歳を超ゆべからず、凡べて之を寄宿せしむ。變則は綴書・讀本・文典・數學・窮理・歴史等の普通學を授け、之を卒りたる後法科・理科・文科の專門學科に進ましむ。入學は隔月に許可するも、年齡十六歳以上たるを要し、入塾と通學とはその便宜に從はしめき。但し本校の存續纔かに一年に過ぎざりしを以て、學則の全體を實施せらるゝに及ばずして止めり。本校の教師は正則に四人、變則に二人、外に訓導加一人、訓蒙二人、訓蒙加四人あり。生徒數は正則に七八十人、變則に約二百人あり。正則の盡く寄宿生なることは前に述べたるが如く、變則の約半數も亦寄宿生にして、學資は束脩・謝儀共に之を要せずといへども、寄宿費は毎月その實費を徴せられたり。 中學西校は、明治三年十一月の中學校規定による皇漢學を教ふる所にして、仙石町元明倫堂に置き、十二月十二日開始せしものなり。その設立は少參事岡島嘉三郎・大屬内藤誠の盡力最も多きに居り、教師には本藩士藤田維正・永山平太・井口濟・河波有道・石黒嘉左衞門・大聖寺藩士東方履ありき。 中學西校の教則は上下二等とし、毎等四級に別つ。教科用書は四書・五經・國史略・十八史略・日本外史・日本政記・日本書紀等にして、授業の方法は質問・會讀・聽講の外、對策・和歌・漢詩・文章の會を設け、專ら活用の才を練磨するを目的とす。又紀傳・文章・經學の三科を分かち、教員各自の長ずる所によりて之に屬せしむ。隔月一回入學試業ありて、小學所に於いて素讀を終へしものに就き國史略・十八史略等を講ぜしめ、文義略通ずるものを合格とす。金澤縣となりし後、四年十月本校の學科を改め、初學の識見を廣め偏頗の弊なからしめんが爲、皇學書・漢土書・西洋飜譯書・洋算を普通學科とし、科外に對策・試業・講義を課することゝし、別に中學洋算學科及び變則佛學を專修するものを置くの制を定めたりしが、該規則變更の翌月本校を廢して金澤中學校を置きたるを以て、未だ實施せらるゝに至らざりき。本校には教師九人・訓導四人・訓導加三人・訓蒙三人等あり。生徒約三百人にして、半數は入塾生なりしといふ。