藩末の醫育は、西洋兵學と共に壯猶館を以て發祥の所とせり。本館に於いては、初め炮術・馬術等を研究するが爲蘭書を調査したりしが、當時蘭書を解したりしものは即ち醫師たりしを以て、文久二年に至りては傍ら蘭醫學の會讀を爲すことゝなり、黒川良安・津田淳三・明石照齋・太田美農里[初良策]・田中信吾[初一庵]・鈴木儀六等、皆自宅に醫業を開くの傍壯猶館に出務してこの事に從へり。而して同年六月の文書に、『蘭醫書會讀等も御取立に相成候間、是又望之者は罷出可申候。右に付、是迄蘭醫試業之節は學校に於いて見屆來候得共、以來壯猶館にて見屈候筈に候。右之通可申渡旨被仰出候條、一統可被申談候事。』といへるによりて見れば、從來學校即ち明倫堂に於いて執行したる醫術開業試驗を壯猶館の主管に移したるものにして、同時に蘭法醫の勢力が獨立せんとする經過を察すべく、次いで慶應元年に至りては公衆衞生の爲に種痘所を設立し、黒川良安その棟取となれり。 かくて醫學の研究は、兵學の進歩と相待ちて益旺盛なるに至りしかば、慶應三年七月更に壯猶館より獨立して卯辰山養生所を設立し、黒川良安・津田淳三・太田美農里・田中信吾相繼ぎて之が棟取に任ぜられ、學理の研究と共に臨床治療に從事せり。これ即ち病院を置きたる始にして、當時入院患者三四十名ありしといふ。養生所の構造は、數棟の病室を分かちて上中下の三等と爲し、別に診察室・手術室・調劑室・精神病者室・醫員室・宿直室・看護夫室・事務室・浴室・炊事場あり。醫學局之に附屬し、分かちて教室・寄宿含・教員役宅とし、その附近に藥圃・舍密局・雷澒局・醋酸局・普請局等あり。舍密局は主とし製藥の事に當り、高峰元稜[後精一]之が綜理に任じ、丘村隆桑・遠藤虎次・旗文次郎之に參與せり。製藥の種類は、硫酸・硝酸・鹽酸・舍利別・丁幾・越幾斯類なり。又別に撫育所を設く。撫育所は都べて八棟にして、別ちて三種とす。一は株小屋といひて家族を有するものを收容し、二は男小屋、三は女小屋といへり。又浴室・役員室・作業場等ありて、その作業場は收容者の作業の種類に從ひて數棟に分かつ。養生所は明治三年二月に至るまで繼續せり。