醫學館の教則は、始め本科・豫科を通じて五等に分かち、一等より三等に至るを本科とし、四等・五等を豫科とせり。而して毎等之を二科に分かつが故に、凡べて十科とするの例なり。 ┏下級文典後編乙甲 ┏第一科語學┫ ┃┗上級文典後編乙甲 ┏第五等┫ ┃┃┏下級 ┃┗第二科數學┫ ┃┗上級 豫科┫ ┃┏第三科理學 ┗第四等┫ ┗第四科化學 ┏策五科解剖學組織學顯微鏡用法 ┏第三等┫ ┃┗第六科生理學動物學動物生體試驗 ┃┏第七科病理治療學病體解剖學 本科╋第二等┫ ┃┗第八科藥性學製藥處方學 ┃┏第九科雜科治療則外科眼科療病法軍陣醫則繃帶法 ┗第一等┫ ┗第十科施藥實驗 〔明治三年觸留〕 かくの如くにして秩序ある醫學教育を開始したりといへども、蘭醫の到着は豫定の如く急速なる能はざりしが、明治三年十二月に至り藩廳は、彼の到著將に近日に在るべきを以て十五日より醫學館内の病院を開き、四民隨意に治療を請ふを得しめ、又病院に寄宿して受療することをも許したりき。患者の中、食料・藥價・治療費の一切を自辨するものを上等寄宿とし、食料のみを出すものを中等寄宿とし、凡べて藩の支給を受くるものを下等寄宿とす。四年三月和蘭一等軍醫ペイ・ア・スロイス來任し、大手町寺西氏の舊邸に館す。次いで嘗て和蘭アムステルダムに留學したる武谷俊三[福岡藩人後原田]・馬島健吉・伍堂卓爾等通譯となり、又教授を兼ぬ。スロイス着任の後は醫學館の教則を改め、修業年限を五年とし、一年を一期とせり。教授の法は、教師の口授する所を聽講筆記せしむるの法を採る。このスロイスは、明治三年伍堂卓爾の在歐中、アムステルダムに於いて馬島瑞謙[會津藩]・武谷俊三・神戸清右衞門の立會により三年間雇傭の契約を爲したるものにして、月給洋銀四百弗と定め、旅行支度金としては月給二ヶ月分を前借し、旅費は往路七百弗を支給し、金澤に着したる後は邸宅を貸與すとせるものなり。然るに來藩の後五年二月、教授課目過多なりとの理由を以て、四年三月に遡りて更に二百弗を加俸することゝなり、七年九月に至るまで勤續せり。その擔任科目は、理化學・動植物學・健康學・解剖學・生理學・病理學・藥劑學・内科學・外科學・軍陣外科及び臨床實習等なりき。 第一年解剖學・繃帶學・理學・動物學・健康學・植物學・化學。 第二年局所解剖・健康學・化學・生理學・植物學・顯微鏡檢査・藥劑學。 第三年病體解剖・病理通論・外科通論・外科手術・内外科檢査・打檢法・聽取法・檢温器用法・病床顯微鏡用法。 第四年病理各論・外科各論・外科手術・内外科檢法・眼科・男子生殖器病・中毒學・軍中療法・銃病療法・假死檢査法・人爲呼吸法。 第五年内外科檢査・皮膚梅毒治療・婦人生殖器病・喉頭鏡用法・産科・醫學歴史・越列機用法・精神病・斷訟法。 〔明治四年觸留〕