醫學館に於ける職員の數は時によりて増減ありしも、明治四年の調査によれば、教官及び醫員を併せて七十四人あり。その他藩吏の兼務にして主付と稱するもの一人、留書五人、學僕七人ありき。經費は、外國人の俸給を除き一ヶ年米三千石を以て之に充つ。生徒の年齡は、初め一定の制限なく、唯三十歳以上なるものは之を晩學生と稱して聽講を隨意とするの制なりしも、スロイスの來著後に至りては、入學年齡を十六歳以上三十歳以下と限定せり。而して生徒の總員は同年に於いて百二十名を數へ、其の中三十三名は入塾生なり。月謝は豫科十錢、本科一年は二十錢にして、その他一年を進む毎に五錢を加へ、最高四十錢に及ぶことゝせり。 加賀藩の學校を叙したる序に、その留學生に就きても亦述ぶる所あらざるべからず。蓋し藩費を以て學生を留學せしめたるは、文久元年航海測量を研究する爲江戸の軍艦操練所に派遣したるを嚆矢とす。是より先、子弟の私費を以て遊學するもの間々これ無きにあらざりしも、藩費留學に至りては決して見ることなかりしなり。その後慶應元年英佛學の素養あるものを横濱に遊學せしめしことあり。同二年關澤孝三郎・岡田秀之助をして英京龍動に留學せしめ、同三年淺津富之助を又英國に派せり。岡田秀之助が齎せる數學書は、後に關口開の研究に資したる所少からず。 明治元年藩の軍艦奉行稻葉助五郎、私に學生神戸清右衞門・不破與四郎・黒川誠一郎・馬島健吉四人を率ゐて歐洲に航す。次いで二年四月岡島喜太郎・佐野鼎・關澤孝三郎・吉井保次郎・伍堂卓爾藩命によりて歐洲に派遣せられしが、喜太郎以下三人は事によりて香港より歸國し、保次郎と卓爾とは所期の目的を達せり。翌三年卓爾外國人三人を教師に雇聘するの約を結びて歸る。その一は和蘭一等軍醫ペイ・ア・スロイスとし、一は普魯西鑛山學士イ・フオン・デル・デツケンといひ、一は英吉利語學教師リツテル・ウオードといふ。然るにウオードは赴任の途、明治四年三月大聖寺に來りて痘を病み、終にその地に死せり。墓は大聖寺の城南出村山に在り。 比慈律甸宇旺獨。英國人也。我藩聘招欲受語學。客途患痘。抵加賀國大聖寺城而死。歳三十。實皇明治四年三月六日。西洋紀元千八百七十一年四月二十五日也。越二日。葬于大聖寺城南出村山。金澤藩少參事岡島一式以下。諸官員莅焉。又使文學教師永山平銘其墓。銘曰。 生歐邏巴。死亞細唖。有數焉存。豈敢憶家。但志不遂。奈之何噫。 是歳(明治四年)七月大日本加賀國金澤藩建乏文學教師山田宣書 〔宇旺獨墓誌〕