明治二年政府は兵學寮を大阪に設け、生徒を諸藩に募りて士官を養成せしが、岡田秀之助聘せられて教師となり翌三年に及べり。この際前田慶寧は、兵學寮の教授その法を得たるを聞き、多く藩士の子弟を派して入學せしめき。當時兵學寮の生徒總數三百十七人にして、内金澤藩の者五十五人を算し、嶄然として頭角を露はしたるもの是に因る。又三年十一月中學東校及び西校の創設せらるゝや、之と同時に學校掛は『西京等へ勤學生規則』を制定せり。蓋し生徒の學業稍熟するに及び東西兩京に遊學することを許し、滯京一年の後に至り勤惰進退の成績を徴し學資を補助することあるべしと定めたるなり。然れどもその後久しからずして廢藩の事ありたるを以て、未だこの規則を實施するに至らずして止めり。