是より先二年五月、嵯峨壽安露國遊學を命ぜらる。壽安の『予素草莾布衣兒。今辱君命赴魯夷。唯願他日鍛錬鐵。鋭爲秋水護皇基。』といへるは此の時の感懷なり。壽安は市醫嵯峨健壽の子にして、萩浦と號し、初め醫を黒川良安に學び、次いで江戸に出でゝ村田藏六の塾頭となり、又長崎に遊びて語學を露國宣教師ニコライに受けしものなり。壽安乃ち三年一月を以て米國汽船に搭し、横濱を發して函館に赴き、五月露艦エルマーク號に便乘して浦鹽港に上陸し、渺茫千里の野を踏破してノブゴロツドに至り、汽車に乘じて聖彼得堡に入る。時に四年一月七日なり。既にして廢藩に遇ひしが壽安は尚露都に留り、七年に至りて歸朝せり。邦人の西比利亞を横斷せしもの、實に壽安を以て初とすといはる。 終に大聖寺藩の學制一斑を記さんに、この藩に於いては天保四年藩侯前田利平が、その臣江守長順・竹内世絅等をして經書を書院に講ぜしめ、諸士及び子弟に是を聽かしめ、號して學問所といへるを以て、學政の事ありし始とす。次いで前田利義の時、安政二年春大聖寺八間道なる前田造酒の舊邸を修造して學舍に當つ。時習館といひしもの是なり。 時習館に於いては、士分の子弟十歳より十六歳まで偶日毎に經書を學習せしめ、之を温讀と稱す。温讀は孝經・大學・中庸・論語・詩經・書經・禮記・易經の順序により、漸次に上級に編入す。温讀を終りたる者は春秋二季に試驗を施行せられ、之に及第すれば常誦讀となる。常誦讀となりたる時は、孟子・小學・春秋左氏傳・二十一史を成るべく温讀年齡内に修了せしむ。温讀は句讀師教授の任に當り、常誦讀は會頭或は助教之を教授し、朝五ッ半に始業して四ッ半に終り、その後半刻間禮式師範に就きて諸禮を習はしむ。十六歳より二十歳に至るまでは、毎月三次朝四ッ時より九ッ時に至るまで孟子・小學・春秋左氏傳の素讀を爲し、併せて講義を聞かしむ。その學力劣等のものは句讀師之を教授し、普通以上のものは會頭・助教之を教ふ。又毎月三次、午前には會頭四書の講義を爲し、午後には助教五經を講ず。試業は春秋二回之を行ひ、藩侯在國の時は自ら之に臨み、否らざれば老臣をして代らしめ、生徒一統に賞品を授くるを例とす。藩士中特に俊髦と認められたる者は、藩命によりて江戸又は京都に遊學せしめらるゝことあり。後醫學・蘭學も亦之を教授す。學校の職員は、事務員に主附二人(家老)・用係二人(頭分)・目附役四人(平士)・留書役三人(歩士)・雜役六人(足輕)あり。教員に會頭二人(頭役)・示談相手二人(頭役)・助教四人(平士)・句讀師約二十人(平士)・躾方師範三人(平士)ありき。