時習館に對する大聖寺藩の武學校を有備館と稱し、前田利鬯の安政四年閏五月廿三日の開創に係る。本館は士分の者の劔・槍その他の武技を專修する所にして定則なく、その師範をして之を支配せしめき。各流にありては師範一人・師範立替二三人・指引・同加人あり。何れも門弟を率ゐて出席しその技を練磨せり。 明治二年三月前田利鬯は學制を改め、時習館の附近別に董正館・達材舍・成徳舍(後温知舍と改む)啓蒙舍を置きて附屬せしめ、有備館の外に操練所・兵學舍を附屬せしめ、之を總稱して大聖寺藩學校といへり。 董正館は寄宿生及び通生に對し洋學を教授する所にして、語學は初め蘭學なりしも、幾もなく英學とせり。生徒は分かちて五級とし、朝五ッ時に始業し晝後七ッ時に終る。教師は上級のものを教授し、上級生徒は下級のものを教授す。その四級よりは文法書の輪講を爲さしめ、之を終る時は更に適宜の書を用ひて輪講せしむ。試業は春秋に施行し、日課・輪講等の點數を斟酌して及第と落第とを定む。又第一級生・第二級生中に就き藩費を以て他地方に交番遊學せしめ、二ヶ年の修業を經て歸りたるものを教員に探用するの法を定め、館内の教科用書には、ウエブストル氏綴書・開成所出版文典・同西洋蒙求・コルネル氏地理書・チヤンバレン氏地理書・ゴルドスミス氏萬國地誌・パーレー氏萬國史・ノート氏窮理書・クワツケンボス氏窮理書等と定めたるも、久しからずして廢藩置縣の事ありたるを以て、是等の規定が完全に遂行せられざりしことは勿論なるべし。