戰國時代以前に於ける加賀・能登二國の文學は、學者文人の徂徠と共に移動せるものなるが故に、地方特有の精華として見るべきものにあらざりしが、前田氏の治を施くに及び、初めて土地固有の文學あるを見得るに至れり。而してそのこゝに至れる所以は決して偶然に起れるにあらず。蓋し明主賢佐の位に備るありて、碩學大儒を封外より招聘し、以て種子を播布せしめ、遂に萠芽の發育を見、枝葉の繁茂を來すに至りしなり。本節先づ加賀藩に於ける漢學傳播の次第に就きて略述する所あらんとす。 抑も前田利家の初めてこの土に封ぜらるゝや、世は尚戰亂の餘習を脱すること能はざりしを以て、その節奪ふべからずその氣世を葢ふに足る所の謀將勇士は多くこれありしといへども、未だ詩書の域に遊び、文辭の圃に憩ひ、聖賢の途に悠々たるものゝ出でしを聞かず。然るに第二世前田利長に至り、慶長中明儒王伯子といふものを聘し、之を城外蓮池園に佳せしめしことあり。凡そ明儒の我が國に歸化したるもの、尾州に陳元贇あり、水戸に朱舜水ありしといへども、二人の來寓せしは寛永年間を上らずして、文筆の業既に海内に絢爛たりし後にあり。唯王伯子にありては、彼等に先だつこと數十年、世は正に刀槍弓馬の技を磨くに急にして、讀書の未だ甚だしく重んぜられざりし時にあるに關らず、夙に之を優招して文學技藝の場裡に馳聘せしめたりしことは、實に利長の英邁による所にして、諸侯伯が異邦の儒者を徴するに先鞭を着けたるものとすべし。利長の學事に力を致せる美學之を措きて他に聞く所あらずといへども、單にこの一事のみを以てしても北陸の士庶をして學に向かはしむるの嚆矢をなしたるものといふべきなり。 第三世前田利常は、寛永中小瀬道喜を京師より招き、その子光高の教授に當らしめき。而して光高も亦聰明にして儒術を尊信し、孜々として筆研に努め、同十七年松永昌三を迎へて侍讀とせり。昌三名聲一世に高く、門下に俊才を出すこと多し。