第五世前田綱紀は先考の遺志を襲ぎ、進みては魯論學庸を幕府の高閣に講じ、退きては則ち詩筵を設け、その晏息の處なる江戸の育徳園に優游し、禮を厚くして學士を待てり。是に於いて異才の士諸方より集り、封内の文物亦彬々として盛に、絃誦の聲日夜絶えざるに至る。即ち萬治三年木下順庵は京都に在りて加賀藩の祿を受け、次いで松永昌三の子永三も同じく我に仕へ、平岩仙桂も亦褐を釋き、寛文五年には澤田宗堅、同六年には中泉恭祐、同十二年には僧高泉の來るあり。延寶三年に五十川剛伯あり。同六年に木下順信あり。天和に羽黒成實あり。貞享元年に室鳩巣あり。正徳四年に兒島景范あり。何れもその經學詞藻を以て來りて君侯に侍せり。而してその才を以て論ずれば彼等各長短ありといへども、聖經の幽頤を闡き詩賦文章の場裡に翺翔せるに至りては則ち相似たり。中に就きて木下順庵・室鳩巣二人を以て翹楚となし、特に門下に秀頴を出せるは之を大書するの價値ありとすべし。その後延享年間に由美希賢あり。明和の末に伊藤嘏あり。鴇田忠厚あり。いづれも加賀侯に登庸せられたる學士中の錚佼を以て稱せられ、本藩の漢學が隆盛に赴けるもの實に彼等外來の儒員が之を鼓吹したる功多きによらずんばあらず。然るに寛政四年前田治脩の藩黌を起すに及びて、教學の具初めて備り、爾後學士文人を封外の出身に待つこと自ら止むに至れり。 飜つて經學に關する沿革を案ずるに、前田利家が經國の業を創剏したる際に當り、京師に藤原惺窩ありて程朱を祖述し性理の説を唱へたりしが、その門人中より洛の松永昌三・江戸の林羅山二人を出すに及び、その學昭々として旭日の天に冲する如き觀を呈し、而して寛永中昌三の初めて加賀藩の祿を食むや、金城の地亦將に道學を迎へんとするの機に向かへり。既にして昌三の子永三聘せられて加賀に下り、家學を繼紹して聲譽を隕さず。昌三の門下より出でし木下順庵も、亦博覽強識にして能く朱註を遵奉し、後進を誘掖して倦まず。寛文十二年前田綱紀室鳩巣に命じ、順庵に就きて教を受けしむ。當時明儒朱舜水來りて水戸侯の客となり、江戸に居る。綱紀亦寛文八年五十川剛伯に資を給し、舜水に就きてその學を傳へしめ、後擢んでゝ藩の儒員たらしむ。大夫奧村庸禮・その子悳輝も亦同じく贄を舜水に執れり。是に於いて程朱の學東西より輸入せられたりしといへども、之を尊信するものは猶少數篤學の士にのみ限られたりき。然るに天和中羽黒成實の來りて金城に寓するに及び、最も程朱の學を祖述すること深く、孜々として教授に努力せしかば、執政村井親長は先づ從學して衣食の資を給し、士大夫亦多く之を矜式し、一藩翕然として歸嚮せり。蓋し加賀藩に儒教の盛なるは成實を以て先導とすべく、實に一代の鴻儒なりと稱せらる。然れどもその初めて北下して舌耕に從事するや、猶斯學草創の業頗る容易ならざりしが如し。鳩巣嘗て曰く、成實の來りて加賀に僑居せしより、首として義理の學を唱道せしに、衆見て奇怪となし相集りて嗤笑せり。その既に從遊せし者といへども亦疑信相半するを免れず、往々にして背き去る者あり。唯終始一貫之に服して渝らざりしもの、奧村脩運・山根直廉・青地齊賢・青地禮幹等數人あるに過ぎず。此等は皆能く師の教を守りて異端に移らざることを得たりと。既にして鳩巣の學成り、貞享元年藩の儒臣に列せられしこと前に言へるが如く、元祿十年齡四十にして金澤に移り、爾後こゝに在ること十五年の久しきに及べり。鳩巣二程及び朱子の學を尊信して、門戸極めて儼然たるものあり。故にその口に發する所筆に載する所、一語一句の微といへども根柢を四書六藝に立て、釋明を濂閩に歸せざるなし。是を以て門下の七才の如き、その師を鑚仰すること至らざるなく盡くさゞるなく、他年鳩巣の幕命に應じて東上したる後に及びても尚一人の之に背くものを見ず。餘炎の煽するところ一藩翕然として風をなし、好學の士皆その嚮ふ所を誤らざりき。鳩巣と時を同じくして伊藤由貞あり。松永昌三の門に出で、元祿九年來りて金城に客寓し、生徒を教授す。由貞の猶子祐之、幼にして共に金城に來り、經史を由貞に受け旁ら文辭に通ず。その帷を下すや、從遊するもの頗る多し。享保の比大地昌言あり。鳩巣の外甥を以て、學古今を貫淹し、蔚然たる大家なり。