かくの如く程朱學は頗る隆盛なるに至りしが、その間亦異説を述べ、別旒を立つるの士なきにしもあらず。元祿の比來り仕へたる中島保祐の闇齋門より出でゝその學を尊信し、尋いで臼田香の美濃より來りて古學を唱へしが如きは即ち是にして、香は伊藤仁齋の門に遊び、研鑽十有餘年、程朱を排し徂徠を斥け、聖言を曲解して一世を脾睨せり。又加藤惟寅あり、伊藤東涯に從ひて古學を受けたり。延享中由美希賢召されて金城に來る。希賢初め貝原益軒に學び、後に物徂徠に從ひ、餘暇老莊浮屠より小説稗史に及ぶ。その群書を綜覽して博識宏通するを以て、國卿横山隆達大に之を尊信せり。次いで寛延・寶暦の際、深山安良の家を擧げて中越より金澤に移るありき。安良博覽強記、天性特に詩に長じ、格調雄偉構想雅馴、藝苑の士一時之に和す。若し夫れ經義に在りては、新奇俗を喜ばしむる説をなして傲然世儒を眇視せり。是に於いて學風爲に一變し、經を講ずるものは新註古註併せて之を商較し、呉廷翰・郝敬・毛龜齡等の糟粕を甞めて以て自ら一家の見となすもの滔々俗をなし、程朱の篤學切要を迂遠なりとし、仁齋を排斥して徂徠に左袒せり。故を以て、誠實學を講じ、省察存養の工夫をなすものなく、其の端一たび開けて風俗澆漓世を擧げて儒士を謗り、詩賦の末技にのみ趨きしもの、是を學風の一大變遷となす。降りて明和の末より鴇田忠厚あり、折衷の學を唱へて高標自ら持せり。又文化の頃に至り、澁谷潜藏ありて越中より來り、諸説を折衷して別に獨創の見を開く。江都の餘熊耳が潜藏に與ふる書に曰く、『其於大學論辯高妙。今之學者不能離朱考亭物徂徠之義而周旋。而足下超乘於二子之上發揮如此。可謂卓見矣。』と。その推賞せらるゝこと此くの如し。 是より先寛政の初、藩侯前田治脩は閩洛性理の學を重んじ、新たに學校を建て、諸儒に命じて經を講ぜしめ、侯親ら臨みてこれを聞きしかば、群生の講莚に連るもの雲集霧合し、一藩再び程朱の學に嚮へり。四書大全・朱子語類の如き、已に廢棄せられて窓戸を塞ぐに過ぎざりしもの、亦頓かに尊崇せられて紙價爲に倍蓰す。而して藩學の教授を招聘するや、異説を立て別旆を樹つるものは之を登庸することなく、專ら新註を奉じ程朱の説を尊崇する學者をのみ簡拔するに努めたりき。故に士の苟くも職を君側に奉じ、教鞭を藩校に執らんと欲するものは、皆この途に馳せざるべからず。不破浚明の詩人として藩主の左右に侍するや、その標榜する所の經學は古義なりしといへども、藩校の既に起り擇ばれて學職に就くに當り、俄然として主張を變へ、程朱の説に歸せし一事に徴するも、能く當時の状況を知るに足るべし。是啻り加賀藩に於いて然りしのみならず、幕府の學官・各藩の庠序悉く然らざるものなかりしなり。是より後學究の徒、朱學を標し實學を榜し、道學先生の頭巾氣習を衒ひて傲然として自ら居ること高かりしといへども、その見る所極めて狹少なると共に、胸蘊漸く淺薄となり、上は教授より下は素讀を以て口を糊する徒に至るまで、その學術文藻、之を元祿・享保前後の學士に比するに雲泥の差あるに至れり。されば嘉永中市儒上田耕が專ら朱子學の範圍を出でざりしに拘らず、學問の要は理を知るに在るのみ、一たび理を知らば書に待つの要なく、書なるものは畢竟古人の糟粕たるに過ぎずと喝破せるを以て、恰も異端なるが如くに攻撃し、遂にその教授と遠遊とを禁止せしことあり。文久三年十二月甲村休五の上書にも、『師儒の儀、是迄通り朱子學を專一に御用被成候儀固陋に近く、有用の人材御取立被成候には別て不都合の筋も御座候。漢唐學とても同じく聖賢治國の道に御座候へば、聖賢作用の儀に著眼御座候者は、悉く御引上可被遊候。又陪臣諸士等にても廣く御穿鑿被爲在、身持心得宜敷材略秀候者は、讀書の厚薄に不拘御選擧可被遊候。』と論じて、朱學墨守の固陋と人材登庸の偏頗とを指摘したりといへども、痼疾の存する所亦如何ともすること能はざりき。