大地文寶蕙齋は昌言の裔孫なり。能く祖訓を守りて濂洛の學を固執し、性瀟洒にして詩書を好む。蕙齋の江都に在りし時、市川寛齋・大窪詩佛・菊池五山等と訂盟往來せり。柴原善・稻垣韶またこれと時を同じくす。韶の門多く明倫堂學士を出しゝが、就中八十島嘉最も詩書に名を得たりき。 件正・細合離は、共に浪華の商賈なり。來りて金城に寓し、詞壇に翺翔す。又津田養ありて一時藝苑に雄視し、山本北山盛に之を推賞せり。同時に津田鳳卿あり、前田治脩・齊廣の二世に仕ふ。鳳卿博覽強記考證該博、最も史學を好み、能く韓非子を讀む。詩賦の學は、その本領とする所にあらずといへども、一時名聲を擅にせり。 能登七尾の人岩城白・その弟眞は龜井道載等に從ひ、門前の人江尻成章等は頼山陽の門に遊び、業成るの後各詩文を以て郷の子弟を教授せり。眞は人に接する恩信、近郷その徳に懷く。成章は詩文を能くし、傍ら皇朝學に精しく、當時能奧の地に文字を談ずるものありしは皆成章の薫陶を得たるによる。 富田景周等の晩年文化の頃は、明倫堂藩學の隆盛なりし時代にして、講經の業頗る熾烈、史學亦隆昌、所謂儒者なるもの濟々として多士なりしとはいへ、詩賦文章の業は一般に往日に比して微々として振はず、纔かに二三子によりて一綫の命脈を維持し得たるのみ。藩學の教授を以て任じたるものにありても、詩賦の平板にして凡調なるは嘆ずるに餘ありき。然るに文政六七年の頃より藩末に至るまで、作詩に熱中する大夫及び士庶人再び俄然として輩出し、唱酬賡和率ね虚日なく、所謂小集雅會なるもの相接續せり。その作固より凡庸にして見るべきもの少しといへども、亦各才に應じて雅懷を暢べ、特に商工の徒にして風流三昧に世を送るもの多く、家業を抛擲してこれに心醉せる輩さへ出で來れり。野村圓平空翠・龜田章鶴山・錢田青立齋の如きはその稱首たり。彼の徒の作る所、著想幼穉、字句生硬、作家を以て目するに足るものなく、甚だしきに至りては、詩賦の題序たる僅々十數の文字中にすら布置顛倒するものあり。到底之を以て元祿・天和の經史に素養ある君子の作に比すべくもあらずといへども、作詩の隆昌はやがて二三詩人の崛起する前兆として、之を慶せざる能はず。