叙上の期間に於ける詩界の産物に對する價値に就きては、暫く措きて之を問はず、この一時の流行を呈したりし所以のもの果して如何。葢し此の如きは、固より天下一般の趨勢たりしに外ならずといへども、亦特に之を唱道し鼓吹したるものありしに因らずんばあらず。その人を誰とかなす、曰く大窪行詩佛是なり。詩佛は文化・文政を頂點として、一時盛譽を詞壇に馳せ、走夫牧童もその名を知らざるものなかりし詩家にして、享保以後の作者が多く明の七子の餘習を受け、剽窃模倣を以て能事とせる大勢中に立ち、その師市河寛齋・寛齋の子米庵等と、范石湖・陸放翁・揚誠齋・趙歐北等の詩鈔より三家絶妙・宋三大家絶句・方秋崖詩鈔等を棹行して、盛に宋詩を唱導したりし本尊たりしなり。彼はもと儒を山本北山に、詩を市河寛齋に學び、帷をお玉ヶ池畔に下して玉池吟社を設けしが、詩佛の作概して清新輕妙の調に富むといへども、雄渾壯麗の氣魄に缺乏し纖巧輕佻の嫌なきにあらず。隨ひてその門市の如くならざりけん、遂に詩行脚を思ひ立ち、文政四年江戸を發して加賀に入れり。詩佛の初めて金城に來りしは、この年秋九月の半にして、中村碧山の家に寓し、翌年春を以て復江戸に向かふ。その間殆ど半載、贄を執りて從學するもの雲の如く、その一批一評を得て拱璧の如くに尊重せり。明倫堂文學林瑜・人持組の士横山政孝等、詩佛の知人として舊識あり。何れも呈するに先生の尊稱を以てし、禮遇至らざるなく、かの尊大自ら持したる富田景周すらその膝下に低頭し、『邀詩佛先生於暮松樓。而忽潤數年文渴。』とさへ記して隨喜の涙を流したりき。今詩佛門下の主なるものを見るに、韓西皋・龜田鶴山・野村空翠・伊藤半仙・村靜齋・錢田立齋・富田菁莪・中村碧山・富田鶴坡・木谷曉山・曾田菊潭・長崎浩齋・木村東亭・伊藤橘窻・香林坊緑陰・谷川鳶齋・大井掬月・島野巴堂・森西園・井上素屛・松田丁夢・武藤鶴亭・僧癡王・九皋・玄天・聖潭等、數へ來れば百數十人の多きに及ぶ。