文政七年詩佛の再び金澤に來るや、主として野村圓平の家に身を寄せ、終に去つて褐を秋田藩に釋けり。抑當時加賀藩の學校たる明倫堂には、教授に林瑜・渡邊栗・津田鳳卿・長井寛卿・陸原之淳・下村宗兵衞の徒あり。大夫士人には横山政孝・榊原守典・岡島脩道等相接踵して出で、各吟咏に日を送りしといへども、是等士人の庶人と唱和するを屑しとやせざりけん、將た庶人の自ら卑下して士人と齒するを避けたりけん。その間纔かに横山政孝が野村圓平・龜田章等數輩を環翠樓に招きしと、林瑜が時ありて圓平・章と相應酬したることを耳にするのみ。それすら他の詩客を迎ふるの接伴として末班に侍せしめたるに過ぎず。されば庶人の士大夫に觸接して風雅の道に涵泳せんことを希ふは、實に星斗を撫摩せんと欲するに似たりしなり。此の時に當り文政十年詩佛が平民的詩人として飄然江戸より下り來り、頭を垂れ腰を低くして人に接し、平淡流暢解し易く作り易き詩法を鼓吹す。工商の斯學に志あるもの、合掌して之を迎へざるを得ず。詩佛の身邊詩餓鬼の堵を作りしもの故なしと爲さゞるなり。詩佛が感化力の及びし所、當時詩人の作いづれも平淡無味に陷るを免れず。他日龜田章が頼山陽に就きてその鹿心齋詩稿の點削を乞ひ、若しくは野村圓平がその遊越詩稿の批評を菊池溪琴に求むるや、詩佛法脈・詩佛口吻などの語を以て、揶揄的に之を評せるもの屢なるに徴するも、いかに詩佛臭味の深かりしかを察すべく、而して是實に詩界の第三變たりしなり。