詩佛既に去るの後、その勢力猶牢として拔くべからざるものあり。遂に大島桃年等は、藩黌の教育が專ら經籍の訓詁を授くるにあるを以て、學生皆一編の小品文をも作爲するの力量なく、一首の短詩を吟出するの雅懷すらなきに至りしを慨し、天保八年意見六十四條を上りたる中に、『詩作の儀は、遊藝に屬し、畢竟浮華に流れ、實學の妨に相成候樣に申なし候者も有之候得ども、左樣の課にては無之候。凡人たる者は、一事養性の興は舞之て不叶者にて、無益の游戲に、時日を費し候儀多く有之候。詩作は學者相應の游藝にて、其上幼少より文事に携はり候得ば、心外へ馳不申、自然と學問を樂み候境へ至り、優游浸灌の味有之、風流温籍の氣を養ひ候。文章は別而學者の心掛くべき品にて、讀書の基本にも相成可申候得ば、好み候人には爲致申度候。』と記し、諄々としてその必要を論じたるに拘らず、當時の學頭は之を採用するの不可なる所以を建言したりき。その眼孔の小なる想ひ見るべきなり。而も生氣の盛なる遂に能く壓迫すべからず。いくばくもなく詩賦は藩黌の一科目として課せらるゝに至りしこと、藩末學士の詩集中に明倫堂課題と註記したるもの往々にして存するを見て知るべし。 當時奧村榮實・奧村惇叙相繼いで學校總奉行となり、經學の傍詩文を弄したりといへども、その作佶倔にして見るに足らず。寺島兢・上田耕二人亦學を好み、經濟の論に長じたりしも、詩賦はその本領とする所にあらず。その他或は職を明倫堂に奉じ、或は帷を金城に下し、各學術を以て藩末の奎運に貢献せるものも、之を詩客とし文人として目すべからざるもの比々皆然らざるはなし。この間僅かに異彩を放つものを求むるときは、千秋藤範有磯と永山政時亥軒との二人に指を屈せざるべからず。藤範は慷慨愛國の人、昌平黌に學びて最も詩賦に長じ、後藩の世子前田慶寧の師となり、政時は安積艮齋の門より出でゝ明倫堂の教職に居り、文辭富瞻亦時流の上に一頭地を拔けり。若し夫れ越中の人杏立凡山の來りて本藩に仕ふるに至りては、鬱勃の氣を胸底に藏し、之を發揮するに雄偉洗錬の文字を以てし、諷刺を洒脱の語句に藏し、自然を艷麗の筆底に驅使す。詩人の面目をして躍如たらしめしもの、實に之を以て藩末の第一人者に推すべし。