飜りて當時の來寓者にしてその影響を詩界に與へたるものを見るに、頼山陽の下りて能登に探勝するあり。貫名苞の來りて大聖寺に僑居するあり。いづれも居停の日多きに上らずといへども、その印象を地方の人士に與へ、感化を藝苑の一部に及ぼせるものあるべし。殊に萬延元年廣瀬旭莊が金澤に遊び、五月能登小木に赴きて篠塚不着を訪ひたる、又同じ頃劉石秋が豐後より來りて、金城の醫師洲崎精の家に寓すること四ヶ月、その間菅茶山の詩によりて律詩の作法を講ぜしが如きは、詩學に貢献せし所實に僅少にあらざりしなり。 下りて明治となり、經學と共に漢詩の流行一時に挫折せりといへども、而も生涯の大部分を斯文に委ねし人士は、此の趨勢に壓迫せられて書を焚き筆を投ずるの遺憾に堪へず。同好の士三五相盍簪し、文を作り詩を賦し、互に品隲批評して以て往時を追憶し、來者の否運を憤慨し、或は花晨月夕、楓下霜前、小盧に相會して沈吟曉に徹し推敲午を報じ、以て一時の鬱を散ぜしもの亦已むを得ざりしものありしなるべし。 支藩大聖寺藩の漢學は、寛文四年第二世前田利明が江戸に於いて儒員河野通英を聘したるに起る。利明通英を師として經を講ぜしめ、家臣亦之に從ひて學ぶ者多かりき。通英は林羅山の門下にして程朱を宗とするものなり。通英歿し、その子通尹亦來仕す。第三世利直の時僧無隱道費あり。來りて實性院に佳し、詩名最も著る。草鹿北軒も時を同じくし、通尹と相唱和せり。第四世利章の時に大江藤街あり。平安の伊藤東涯に學びしも、歸郷の後暴かに歿せしを以てその學傳らず。第五世利道の時に大幸岱畎あり。大宰春臺に學びて古學を主唱す。岱畎の門下に那古屋一學・前田信成あり。信成は侯族にして臣列に下りし者、その學深からずといへども凡庸の人物多かりし此の時代に在りては出色とすべし。樫田東巖亦同時に出づ。又岱畎の甥にして之に學びしものに大野魯山あり。利精・利物・利考の世に亙る。草鹿蓮溪・樫田北岸は魯山に學ぶといへども、その説を陳腐として去るといふ。同時に早見湍水・福岡東郭・東方祖山・岡村琴臺あり、祖山は天禀温籍江戸に在りて山本北山に學び、一藩の子弟を教授す。その子蒙齊亦北山に學び、書法を市河米庵に問ひ、蒙齊の子芝山藩末に出でゝ實用經世の學を鼓吹し、人傑の風を備ふ。又利考・利之の世に出でゝ名を天下に著せるものに大田錦城あり。錦城初め北山に學び、後に獨立して一派をなし、吉田侯に仕へ次いで加賀藩の招聘する所となる。錦城の晩年、兒玉旗山京に出でゝ頼山陽に學びしも壯にして歿せり。利考は又江戸の泉豐洲に學び、竹内親知も同じく之を師とせり。福水は親知の子にして、初め大野魯山の子癡山に就き、後に錦城の門下に入る。經術に精しく、藩侯四世の侍讀となる。福水の門下に田邊明庵あり。後に江戸の安井息軒に學び、藩末より明治に至る最後の儒宗たり。福水に對立せるものに江守城陽あり。又錦城の門に出で、藩學の會頭たり。平井復齊は城陽の學を嗣ぎし者にして、明庵と共に藩末の學政に與る。更に祖山・錦城と時を同じくして草鹿蓮溪あり。醫にして詩を能くす。蓮溪の子遯齋、遯齋の子蓮浦も並びに詩を能くせり。 前節加能二州に於ける、加賀藩の經學詩文に就きて、その一斑を述べたり。是より進みて學者文人の系統並びにその業績を細設する所あらんとす。