前田利長は、慶長中明の逋播の臣王伯子の儒を以て我が國に流寓するや、聘して金城に居らしめ、四書を校刻し、又詩を作らしむ。蓋し異邦の儒を我が邦に聘用せし嚆矢なること、前に之を言へるが如し。 王伯子、名は國鼎、伯子はその字なり。前田利長の伯子を聘するや、彼をして城外蓮池園に居らしめ、衣食の資を給し、優游日を送らしむ。利長又當時我が國にて重刊せる四書に譌誤多きを憂へ、伯子をして之を校正して公にせしむ。伯子已にその業を終へ、刊行するに及び末尾に跋して曰く。 日本重刊先聖四書。間多錯漏。而文句向背稍違聖語。余入加賀。加賀國王筑前守樣。命鼎照日本刻論語抄寫。余幼習聖經。尚記章句。知有錯悞。遂補其損。裁其益。間有一二字近通者。存諸。蓋因其音語讀法顛倒之不同也。抄成二十章。字拙不工。聖經永寶。王國鼎書。 筑前守樣の語甚だ奇。郷に入りて郷に從ふといふものは、蓋し伯子の謂なり。前田利常が曾て越中高岡瑞龍寺に寄進せる畫鷹の屏風あり。その贊辭凡べて十六章は、伯子の題する所にして、筆勢遒勁頗る賞すべし。 又山水を描ける扇面ありて、贊辭は伯子の筆なりき。今之が所在を詳かにせずといへども、日本慶長六年八月日大明王伯子寓加陽旅舍題と記したりと傳ふ。さすがに故國を思ふの情忘じ難かりけん、大明の文字他の涙を促すに足る。また金澤の藥舖中屋氏の藏したる屏風に狩野元信二十四孝の圖ありて、伯子之に詩を題せり。その孟宗の詩に曰く。 涙滿朔風寒。鮮鮮竹數竿。須臾春箏出。天意報平安。 王國鼎筆蹟男爵前田直行氏藏 王國鼎筆蹟