松永昌三、諱は遐年、講習堂又は尺五堂と號す。平安の人、博學洽通にして聲名赫々たり。葢し戰國の末に生まれ、慶元維新の際に長ぜり。當時列國の君侯鈴韜を寶玉とし、籩豆を長物とし、文人儒士の如き一顧にだに價せず。昌三獨經術陵夷の後を受け、惺窩に從游して羅山と名を齊くす。葢し後世の學者をして斯道あるを知らしめたるは、昌三・羅山二人の力なり。經術にして既に然り、況や赤幟を詞壇に樹て、その威風堂々たるものあるに於いてをや。昌三作る所の文詞未だ伸びざるものありといへども、もと是時勢の然らしむる所にして大に同情に價するものあり。昌三初め年十八、豐臣秀頼に謁して大學を講じ、後去りて攝南の諸侯に遊説せしも皆合はず。寛永十七年遂に前田光高の聘に應じて來る。途上詩あり。曰く。 大聖寺 青松清道自盤垣。十里風聲征袖寒。枝上新年添緑好。崢嶸莫做舊時看。 小松 四序臻玆風雨頻。農人襏襫毎纒身。群峰積雪豐年瑞。春及田疇可樂民。 到賀城 朝來遙到賀陽天。遮雨妨風積日前。城闕連雲徳惟等。洪基垂統幾千年。 利常亦之を小松城に延見して、經を講ぜしめしことあり。又寛永十九年九月十三日宴を三叉河上の水亭に賜ひ、月を賞するの詩を上らしむ。昌三律を賦して曰く。 寛永十九年。侍九月十三夜高宴賞月。應命。 此夕小松城裡月。清明再若遇中秋。槳舟行碎剡溪雪。揚斝倶娯瀛海洲、江面風微波浪穩。峰頭雲淡斗星幽、遡廻同坐廣寒殿。上下流光萬玉浮。 賜宴三叉高亭應命。 幸蒙恩許登高榭。加國山川置一望。漁艇迎晴周設網。文莚鍾景各傾觴。峰遙天濶雲夢澤。物傑地靈崑玉岡。湖上麗光看不厭。前身何愧賀知章。 又曾て光高に放鷹に陪し、途中覽る所を賦す。曰く。 竹橋 竹橋風景入春奇。名躅停輈住少時。山色水光看愈好。喜晴啼鳥滿林枝。 栗柄嶽 栗柄嶙峋休又登。雪殘溪上水猶凝。舊堂遺庿依然在。絶頂林深雲幾層。 是等の詩、語意愿朴にして毫も鉛華を用ひず。素より後世の儒生が濃艷柔媚の筆を以て、人を魅するの類にあらず。以て當時の詩風を窺ふに足るべし。昌三門人多く、我が儒臣にして最も重きを爲せる木下順庵亦その一人なり。昌三晩年官を辭し、京に歸りて教授し、明暦三年歿す。年六十六。長子昌易洛に在りて家學を傳へ、次子永三父に襲ぎて加賀藩の侍讀たり。昌三著す所、五經集註首書・四書事文實録・古文眞寶後集首書・三體詩首書・彝倫抄・古今後集抄・莊子抄・蒙求鈔・滿籯孫教等あり。