前田綱紀、初の名は綱利。國義・取益・振肅・中和・叙倫等は字にして、敬義・養民・顧軒・三省・香雪・梅墩等は皆その別號なり。天骨秀朗、經世濟民の業に勵精し、朝儀を興し律令を定め、併せて文教を嗜好し、社稷の計を爲すの暇、墳典を渉獵してその奧頤を剔挾し、藻を擒り翰を馳せ、之に加ふるに該博を好みて天下の奇書を貯へ、その書齋は之を宋の崇文院に倣ひて經史子集に分類し、收藏と點檢とに便ならしめたり。新井白石爲に語を爲して曰く、加賀は天下の書府なりと。室鳩巣亦曾て之を評して曰く、北藩三州の大牧伯たる今の菅侯は、大に河間書を好むの遺風あり。嘗て遺書を搜討して以て四方の志を致し、古今の珍籍を集め、四庫に藏するところ倚疊して山をなす。而して其の收むる所は皆四部七略の書にして、率ね巨卷大册なり。その餘金石の遺文・小史稗篇も、亦その爾雅にして近古なるものを取りて之を附す。然れども近世の猥瑣卑俚の書にして俗を破り風を亂すものに至りては、皆退けて之を採らず。或は儒生をして明儒朱舜水に就きてその根原の教化を繹ねしむ。葢し公居常藩鎭の費を以て、徳を丈苑に毓し、禮を以て賢士を待ち、以て書を講じ文を論ぜしむ。故に巨儒踵を接して來ると。實にその言の如く、松永昌三は綱紀治世の初に於いて退隱したるも、其の次子永三代りて祿せられ、平岩仙桂・澤田宗堅・中泉恭砧・五十川剛伯・羽黒成實・小瀬助信・稻宣義・伊藤由貞・兒島景范・小瀬良正・木下廣孝等の諸儒、相次いで褐を繹くあり。特に木下順庵の寛文四年を以て金澤に來るや、諄々として門生を教養し、伊洛の教をこの土に廣め、室鳩巣の貞享元年を以て初めて祿せらるゝや、謹嚴なる聖教の鼓吹と穩雅なる詩賦の奬勵とを以て、斯文をして絶大の光華を放たしめき。是に於いて奧村庸禮・奧村悳輝・古市務本・今村正信・原元寅・青地齊賢・青地禮幹・奧村脩運・津田孟昭・葛卷昌興・小谷繼成・淺加久敬等の藩士蔚然として學に興り、絃誦の聾日夜耳に絶ゆることなかりき。若し夫れ緇流にして文學に貢献せるものには、千岳あり、高泉あり、普門あり、月坡あり、月舟あり、萬山ありて、以て詞苑の花を飾れり。葢し加能の地、文雅を唱ふる最盛の極、一變して將に道に至らんとするものなりと稱せらる。