竹田忠種、通稱市三郎、前田利常の時仕へて使番となる。文才ありて詩を好む。綱紀の世に至り、萬治元年利常の薨ずるや、その殊恩を荷ひたるを思ひ、品川雅直・古市胤重等と自刄して之に殉ず。 その永訣の詞に曰く。 靈恩難謝斷生命。鮮血淋漓濯梵天。四十三年閻浮夢。無明醒盡一時圓。 古市胤重初め前田利常に仕ふ。通稱左近。利常薨ぜし後忠種と同じく殉ず。絶命の詩に曰く。 不堪君惠赴黄泉。遺命功遮時暫遷。三十四年風一時。吹開物外雪花天。 葢し當時文風未だ甚だ盛ならず。故に是等の詩殆ど梵偈に似、拙陋固より覆瓿に値すべし。 松永永三は昌三の次子なり。昌三の晩年仕を辭して京に歸り、明暦三年を以て歿するや、永三加賀に來りて侍講となり、父の業を紹ぎて家聲を墜さず。初め前田綱紀の木下順庵を登庸せんとせし時、順庵之を辭して曰く、余は尺五先生の門人なり。今先生の次子永三の在るあり、請ふ先づ之を聘せよと。綱紀その義に感じ、終に之を招くといふ。 平岩仙桂、仙山と號し、所居を忘筌集・一柳軒又は晞顏齋と稱す。平安の人。前田綱紀に仕へて文學となり、祿三百石を食む。仙桂經史百家を該綜し、脾詞麗語彫琢して句をなす。綱紀詩を命ずれば、筆を把りて縷々數十言直に成る。仙桂又書法を石川丈山に學びて草隸を工にす。寛文十二年丈山齡九十を以て歿し、遺命してその六六山堂を以て之に附す。是に至りて仙桂骸骨を乞ひ東山に偃蹇す。著す所志筌窠爨桐集六卷・渭北吟藁一卷・甲辰紀行一卷あり。又宮川一罕子が輯する所の詞林意行集後篇及び拾遺意行集に、その紀行の詩五十三首を載す。皆丈山の批する所なり。又扶桑名勝集に、その東山泉涌寺八景・泉峰至聖堂八境及び十境の詩三十六首を載せ、丈山・羅山等の大家と比肩す。その詩名當時に嘖々たりしこと故なしとせざるなり。今その作二三を收録す。 自樂 一圃抉渠收芋栗。半檐斅字藝芭蕉。道機便自閑中動。世事還隨睡裡消。假卜林泉先養志。漫違禮讓叵勞腰。夕陽關外夕陽落。勾引野梅過野橋。 巖根枯藤 幸逃樵斧害。活雨得含春。彷彿藏蛇勢。何時見大人。 漁舟 蓑笠凌高浪浮沈惟任風。釣竿爲活計。寄箇小舟中。