木下順庵諱は貞幹、字は直夫、通稱平之允。平安の人なり。錦里・敏愼齋・薔薇洞は皆その別號とす。業を松永昌三に受け、萬治三年十月前田綱紀の聘に應じ、祿二百石を食む。その學の該博なる、天下讀まざるの書なく、古今記せざるの事なし。若しそれ天文暦數禮樂名器爾雅訓詁の説、職方人物の志、世の學者共の一を得れば猶以て人の畏敬する所となるもの、順庵は倶に之を胸中に收む。故に大夫學士の始めて其の門に遊ぶもの、目眩し謄落ち恍として自失す。朱舜水曾て書を與へて曰く、『台臺文苑之宗。人倫之冠。博綜夫典謨子虫。研窮乎孔孟程朱。逖矣聞名於西土。晩哉相見於東都。』と。而して其の詩賦は典雅莊重、頗る盛唐の氣風に富む。實に是れ學海の冠冕にして、詞苑の翹楚たり。故に徂徠その詩を評して曰く、『錦里先生者出而。榑桑之詩皆唐矣。』と。服部南郭亦曰く、『錦里先生實爲文運之嚆矢矣。雖其詩不甚工首唱唐。』と。是を以てその門下濟々として實に多士なり。柴野栗山之を評して曰く、『錦里先生門之得人也。參謀大政。則源君美在中。室直清師禮。應對外國。則雨森東伯陽。松浦儀禎卿。文章則祇園瑜伯玉。西山順泰健甫。南部景衡思聰。博該則榊原玄輔希翊。皆瑰琦絶倫之材矣。岡島達之至性。岡田文之謹厚。堀山輔之志操。向井三省之氣節。石原魯學之靜退。亦不易得。而師禮之經術。在中之典則。實曠古之偉器。一代之通儒也。夫以若數之資。而終身奉遵服膺先生之訓。不敢一辭有異同焉。則先生之徳與學可想矣。』と。我が藩に在ること十九年、天和二年徴されて東に去る。嘗て狩獵に越中に隨ひし時詩あり。曰く。 放鷹於越野。勁氣滿雲端。百羽獲俄頃。双飛落一丸。鴻肥翎似葢。鳧老蹼如丹。得復眼莎毯。相隨上竹竿。憐斯摶撃後。寧避雪風寒。歸府千夫膳。倶稱萬壽歡。 綱紀曾て春日育徳園に於いて宴を開き、二條吉忠を饗せしことあり。順庵之に陪し、賦して吉忠に献ず。其の詩に曰く。 園林晴景好。華轂暫停輪。柳眼青迎客。花腮紅媚人。東閣望卿月。萬國仰王春。歌詠風流在。鳴禽別樣新。 また篠原に往事を懷ひて。 齋藤古壯士。一死報宗盛。鐵冑今無恙。錦袍舊有名。復烏天澤鬂。遂結仲由纓。所重雖應議。忠肝自盯〓。 礪波山にては則ち。 聞昔源平氏。角雄各倔強。白旗飜鷲瀬。赤幟立猿場。水兕甲兵勇。火牛策最良。越山一奇捷。宇内播芬芳。火牛餘焔嶽楓丹。積骨舊溪使膽寒。一宇宙間問神策。古今唯是兩田單。 其の文章の最も簡なるもの一篇を掲げて、謹嚴の筆鋒を證せん。 與朱舜水書 一染爲縓。再染爲赬。三樂爲繧。物固不可不染地。而在染之善與不善。擇之精與不精耳矣。人之相交也亦然。丹之所藏者赤。漆之所藏者黒。蘭室鮑肆。擇之不可不精者也。夫物之染也。其必一染濃於一染。善之染也。其可不數染乎。古之人。一言相知。傾葢如故。其所得不爲不多。若夫能再而三之。則染之深。化之成。其將何如也。若幹舊染汚濁。猶紅紫緑碧間于正色。向在東武。執謁仭墻。得沐清誨。舊染頓消。新益少見。其猶一染爲縓。庶幾染之善。擇之精。而益得至其濃矣。歸期有限。匇匇分離。不得漸漬之久。已再到貴府。陶於盛徳者數矣。赬之再染。其染益染。去歳今春。頻頻薫炙。殆八閲月。此乃三染爲纁之秋也。顧敗素朽帛。染不爲色。惟供大方家之一噱已。雖然自今已往。四入五入。六入七入。以成眞色。此又幹之素望之所在。而終頼江海浸潤之化也。睽別兩月。鄙吝復萠。瞻望弗及。臨楮耿々。千般衷曲。統祈台炤。 順庵年七十八、元祿十一年を以て歿す。著す所錦里文集・班荊集あり。後明治四十二年九月十一日正四位を贈らる。二子、長を順信といひ、次を寅亮といふ。その加賀藩に於ける門人の名ある者は、室鳩巣・脇田直能・原元寅・その子元慶。