中泉恭祐、字は主靜、大和の人なり。寛文六年十二月順庵の勸によりて、加賀藩の儒員となる、食祿二百石。その才高からず、その識深からず、未だ以て聖經の精を窮め微を闡くに至らず。而も巨儒室鴻巣・岡島達等と相比肩して學職に列せしもの、亦光榮と言はざるべからず。寳永二年年八十二にして車を懸け、其の子祐信後を繼ぐ。 暮春津田公別墅作 櫻柳遶池橋上通。時時小雨送香風。半醒牛醉世塵外。何但桃源仙境中。 市塵賞月 九衢塵裡月。茅居半窻明。陋室雖容膝。長天足發情。光磨三獻璧。影照一經籯。白髮中秋景。朗吟蟾氣横。 五十川剛伯、字は濟之、鶴皋と號す。平安の人。平生慷慨にして氣を負ふ。初め武を好みしが、後節を折りて書を讀めり。寛文八年七月前田綱紀資を剛伯に給し、朱舜水に從遊せしめ、延寳三年五月剛伯の學略成るを以て、藩の儒員に列して祿三百石を食ましむ。元祿元年十一月剛伯綱紀の旨を奉じて、學聚問辧一百四十六卷中の助語集要一部十三卷を撰し、又詩範一部九册を撰す。皆舜水に聞く所を輯せるなり。剛伯の才學平岩仙桂と相伯仲し、一時國卿大夫本多政敏・奧村悳輝・津田孟昭・木多政冬の輩其の門に遊ぶ。故に花晨月夕の雅會高宴、剛伯その詩柄を執りて之を可否せざるなく、會稿の序跋は剛伯之に關せざるなし。また書を能くす。晩年城西の僻陬に山齋を結びて遊息の所となし、梧月軒といふ。元祿十一年十二月その子源一郎の贋銀の罪に坐して、生駒直政の家に錮せられ、明年五月二十六日能登の曲邑に謫せらる。 舜水嘗て剛伯の爲に、その字を濟之と命じ、且つ之が説を作る。曰く。 禮二十面冠。冠而後字之。尊其名也。子今年二十。合於當字之禮。且初學於我。面屢爲請。子姓源。氏五十川。發而爲源。流而爲川。皆至柔也。傳曰水至弱。民狎而弄之。名爲剛伯。伯者長也。是剛之最者也。二者固宜有以調劑之矣。書曰。沉潜剛克。高明柔克。易曰。水火相爲用。既濟剛柔。正而位當也。故字之曰濟之。濟者水火之能也。而濟之者則人士之力也。害不云乎。天工人其代之。玆以令月吉日、宇爾以徳。爾尚棄爾幼志。以順聖賢之則。夫勵志不撓者剛也。自彊不息者誠也。内文明而外柔順者柔也。則進於正直而平康矣。彼爲陵厲之氣。而内實荏苒者。倒行而逆施者也。煦々嫗々。一於巽軟者、乏陽明之徳者也、三者於何取法而傚之哉。 剛伯の詩概ね幽艷にして而も典雅、大いに時流の表に出づ。其の文亦奇峭勁峻、誦するに足るものあり。 閑居寓懷 懶性聞道晩。何由解吾惑。寄跡北海南、卜居南山北。松筠供吟哦、烟花助文墨、閑行餘數歩、靜坐移景刻、蛙鳴水無聲。蝶舞風有色。顏巷一瓢酒。永忘在異域。傾蓋少親朋。讀書稍喜得。易翼仰聖和。詩頌懷賢徳。明暗感盛衰。動止存語默。天地自盈虚。君子尚消息。從來智仁樂。樂樂樂罔極。 順庵木老先生。前侍御講於便殿。復降台命。乃使老先生講中庸書。剛聞而 喜之。匪啻鼇抃雀躍而已。因裁一律。以寫鄙情。且述契濶之情云。 世間縁底少知音。霽月仰師感古今。離別十年常騁望。江山千里最關心。講書金殿恩光滿。興道儒門意氣深。欲説平生多少事。西風日暮鳥歸林。 菊山石記 嘗聞菊水之源。發自菊山。其山之南麓。叢菊自生。其花皆單。共色盡白。土人飮此滋液。而得壽者頗多。古云。南陽縣有菊水。飮其水者。上壽百二三十。其次百餘歳。其下七八十。由是觀之。名實相類。中華國朝可同日道也。余友九里翁。一日與親朋三四輩。倶浴乎菊水之流。下網捕魚。遊賞忘歸。其間偶得奇石。携來置之案頭。日滌胸襟。把玩之餘。授之冢子孟祥。孟祥奇之。受而愛之。愛而賞之。賞而不置之。因請名於余。余告之曰。凡萬花之在人間。無不可愛者。然菊之於花。比之群花。其品最高。禮稱正色。騷載落英。栗里秋芳。菊水露甘。或胡廣之愈疾。或彭祖之保術。菊之玅用。不可復盡也。今此奇石。能似菊山。盖山之爲石耶。石之爲山耶。其爲一耶。其爲二耶。余不復知所以名之。適憑毛氏。強命之曰菊山石也。今茲翁齡已近八旬。其平素養性消慮。忘言居間。佗日輔體延年。軀壽堅久之等斯山。則得向所謂上壽者。亦不可知也。於乎。孟祥之所憂。則不徒愛其似山。而有所敬焉。夫山之靜者。仁者之所愛也。父之所賜。孝子之所敬也。既得仁者之所能愛。復用孝子之所能敬。則於物無所不愛。於人無所不敬也。況其愛敬不能忘焉。則物雖至小。固寓其意最大矣。