伊藤由貞、字は太享、萬年と號し、其の講書の堂を春秋館と稱す。京師の人なり。少年にして松永昌三に學び、晩年加州に來り、客寓すること六年にして元祿十四年七月歿す、年六十一。由貞の加賀に在るや、清貧仕へずといへども經學詩文を以て諸生を教養し、一世の重きを爲す。順庵・鳩巣の二老擢でられて江都に去りしより、學苑に雄視せしものは由貞を然りとなす。而して由貞もと經學を以て門戸を張るが故に、詩文の如きは本領にあらず。故にその作る所頗る寥々たり。只一二を見るのみ。 題浦島子至仙宮圖 誰昔傳道浦島子。平明操竿出丹陽。一葉扁舟天接水。曉風吹波湛不量。餌得靈物伸也縮。發生仁意免亦藏。邂逅汨沒値漁客。歸寧出現告龍王。水府清空幽絶裡。抱負相携入望洋。綽綽處女坐相配。棣棣侍妾宴斯長。貝宮連器居體胖。瓊室設筵飮食芳。犧罇雷爵異人事。鴛席鸞琴非世妝。間暇眺望怡顏厚。優遊燕興笑語香。繁華終日伴翠袖。榮耀多年蒸黄梁。歡娯眼目脱珠履。保撫形容與玉筐。俗情頻動豈久住。神清心冷轉堪傷。漫波浩蕩江烟晩。催舟搖棹宿無遑。別離葢密失言固。塵世幾許送風〓。歸來往古爲誰問。去後更今四百霜。尋到荒墳唯纍纍。願望狂瀾杳茫茫。恍忽空思蓬莱島。依稀獨坐寢覺牀。天數難遁開筐急。雲樣分散勃飛颺。無懶性命留不止。丹顏看變身已喪。 之を剛伯の詩に比するに、殆ど天淵の差あり。況や順庵・鳩巣に於いてをや。その文の如きは、問はずして可なり。 伊藤祐之、字は順卿。初の名は由言、字は思忠。剡溪・白雪樓又は觀文堂と號し、又華野と號す。伊藤由貞の甥にして養はれてその嗣となり、共に加賀藩に來る。祐之經史に通じ、傍ら文辭を能くす。是を以て正徳元年韓使の來聘せるとき、慈照院の祖縁に從ひ、學士李礥等と會して屢々唱和せり。享保十四年藩臣前田孝和の慫慂に因り、帷を下して教授せしに、門人市を爲し、加藤惟寅・生駒直武・不破浚明・朝倉景純・朝倉嶽等その翹楚たりき。後終に仕へずして歿す、時に元文元年二月、齡五十六。著す所白雪樓集五十卷あり。その中山脇敬美に寄する百二十餘篇の如き、沈深吟の三字を疊みて韻に歩し、一字の雷同を見ず、大力量といふべし。子あり、嘏といふ。 月夜青地長君宅集。聽瞽師藤澤彈琵琶。 夜深絃更急。明月上高樓。清怨何堪聽。暗泉咽不流。 冬日送人之武州 殘夜北風拂客裝。驪駒歌罷月蒼蒼。黃雲送色嶺頭雪。清曉有聲橋上霜。馬傍海濱潮汐近。雁迷塞外陌阡長。年年未遂東遊志。何日振衣入武陽。