小瀬良正、通稱順元、後復庵と改め、桃溪と號す。その四世の祖坂井就安は、我が儒官甫庵道喜の嫡男なり。就安慶長十九年醫を以て前田利常に仕へ、坂井氏を冒しゝが、良正の晩年に及び本姓小瀬氏に復せり。良正亦醫に長じ、詩を以て著る。その筆致絢爛、宛として蜀錦に似たり。嘗て岐岨を過ぐる一律あり。曰く。 征旆飛飛繞翠屏。山東勝事我曾經。豪雄昔起楚三戸。道路今開秦五丁。猿島崖高霜樹赤。魚龍水落石潭青。還嗟棄險行多日。北望郷關數驛亭。 新井白石を見、節を撃ちて三嘆して曰く、此詩可泣山鬼と。既にして書を良正に與へ、頻に之を推賞していふ。岐岨路開けてより未だ此の詩の如きあらず。今より後といへども豈これあらんや。惜しむらくは此の詩を崖石に彫りて、その路に樹てざることをと。二條吉忠亦良正の詩を稱し、數々和歌を賜ひて之を褒す。良正の朝鮮學士と唱和せしとき。 名に高きこまもろこしの國までも傳へてあふぐことの葉の色 又桃溪の號を詠じて賜へる歌に。 みちとせになるてふ桃のたにかげに老いず死なずの藥もぞある 是その一例なり。良正享保三年八月十日江戸よりの歸路越後名立に歿す、年五十。その友本保長益、遺詩を集めて良正集一卷を著す。良正の絶筆の吟に曰く。 事親年更短。報主日非長。半白人如夢。落花芳草傍。 一時文人騷客聞に之を傳稱す。良正の詩を推敲するや、或は日夜に連りて苦吟厭はず。故に大抵雄健富贍、最も詠物に長じ、屢江都の碩學老儒に嘆稱せらる。 鬱鬱澗底松 燕谷寒無艸。澗邊唯看松。常期君子操。何覓大夫封。枝借千年鶴。根蟠百尺龍。流膏餘赤日。黛色上青峰。露滴輕陰散。烟飛偃葢重。風濤還似鼓。既夕更鼕鼕。 賦得金烟管 五嶺無冬夏。烟飛瘴厲郷。一朝初下種。百世遠流芳。炎帝遺朱字。燧人興赤祥。南金双贈。東箭美乃剛。勾踐曾懸膽。孔丘不撒薑。涎垂逢麹處。唾落拾珠傍。馥郁蘭齊握。瞑眩藥更甞。青樓吹蜃氣。素練吐虹光。虀臼受辛小。椒盤守歳長。春雲衣上繍。夜雨帳中香。祝噎倶扶老。療飢便得方。壬生憐竹緑。韓子薦蕉黄。食葉如蠶事。啣蘆似雁行。寛心非是酒。霑渴勝於漿。既醉還堪賦。相思豈敢忘。誰能知味者。情在獨眼牀。 蔫草肇傳閩浙潯。周流寰宇使入淫。代茶代酒曾無厭。既醉既醒猶克尋。噴去氤氳方士術。含來髣髴羽人心。花晨薫席疎還睦。月夕燃絲晴與陰。産選精麁如剖粟。價分高下或齊金。銀銅管就殫彫琢。錦繍帒裁穿線針。撃壤庶民娯結好。太平天子奈須禁。頗開榮衞頑痰滯。道抒風寒瘴霧侵。鬼國回生詳載籍。奇功豈怪勝人參。 良正の詩、或は老蒼、或は雄健、絶えて媚嫵軟弱の體なく、跡を古人に接するに足る。白石の推賞措かざりしもの故なきにあらざるなり。葢し順庵・鳩巣等の詩は嚴正雄渾の調に富めりといへども、原と是れ儒家の作なるが故に、猶未だ頭巾氣習を全醒するに至らず。獨良正の作に至りては、眞に所謂詩人の詩にして、前に比すべき人なく、後に纔かに深山安良の接踵するあるのみ。只その文は則ち多く見るを得ず。