青地齊賢、初の諱は定理、字は伯孜、讓水又は兼山と號し、その亭を愛日と名づく。幼名太郎助、既に長じて彌四郎と稱し、後藏人と改む。寛文十二年二月二日金澤に生まれ、延寳四年正月父定政の後を襲ぎ、八百石を食む。享保十三年十二月二十五日病みて歿す、享年五十七。齊賢學を好みて鳩巣に從遊し、門下七才子の一に算へらる。鳩巣常に稱して國士無双と爲せり。その著す所の兼山麗澤秘策は、鳩巣と贈答の書簡を集めたるものにして、加賀藩史上の好資料たり。 嘗聞赤穗義士之墓。在東都泉岳寺。義士賜死。十年于今。當時僕在北海。聞此烈事。 後過東都三。職事鞅掌。不能一詣諸士之墓前。感慨何止。鳴呼成仁取義。諸士有焉。 聊操筆述鄙懷云。 蕭寺經過地。白雲空復情。精忠天地動。高義古今明。草蔟纍纍塚。樹深欝欝城。留連人不見。悵望涙霑纓。 客思 木落風蕭瑟。秋高霜氣清。長空何所望。曉月故園惰。 青地禮幹、通稱は藤太夫、初名源次郎、字は貞淑、その居を仁智樓又は浚新齋といふ。齊賢の弟にして、父定政より祿二百石を配分せらる。亦室門七才子の一なり。常に書を手にして之を釋てず、道を以て自ら任ず、亦一世の偉人なり。鳩巣嘗て曰く。 貞叔。與其兄伯孜從吾遊久矣。吾愛其縝粟而齊莊。叔也吾愛其恢弘而疎通。至於好禮近義。古道自處。卓然有以自異於流俗者。二君同之。皆一國之選也。 又曰く。 貞叔少優遊藝苑。飮道徳之膏腴。咀文章之英華。吾謂天之生斯人也。其如是是矣。 その推賞せらるゝこと此の如し。以てその人と爲りを知るに足る。浚新齋文集三卷あり。字字凄愴、句句峻烈、その氣魄の大なる實に葛卷昌興以來の一人者たり。禮幹又記性に富み、能く諸書を背誦す。恒に見聞する所を筆録して巨細遺す所なく、特に國家の典故に裨益するものは傍搜大に努む。系譜・年表・可觀小説・浚新秘策・加邦録等の著あり。天和以來享保に至る數十年間の事蹟、今にして明らかに知るを得るもの、禮幹の力實に多きに居る。正徳元年韓使來聘するや、禮幹之を京師に會して相唱和す。その什當時に在りて書肆の發刊する所となる。大槻朝元の前田吉徳の寵を恃みて威福を弄するに及び、禮幹切齒默視するに忍びず、書を國老本多政昌等に贈りてその奸を發き、次いで世子宗辰に上疏して具にその罪状を彈劾す。書末韓愈佛骨を迎ふるを諫めて左遷せられし時の詩句を引き曰く、『欲爲聖明除弊事。背將衰朽惜殘年。』と。時に寛保三年なり。延享元年四月二十五日歿す、年七十。禮幹詩文を善くし、雅典穩健遙かに其の兄齊賢の上に出づ。門人頗る多く、本多政昌・前田直躬等の國卿大夫就きて教を受くるもの少からず。 望嶽 名嶽復無敵。孤高鎭北州。虹懸秋浦曙。日出海雲流。連峰行對面。積雪遠凝眸。明主問遣逸。應向此山求。 三養齋記 禮幹自京師還。而無状靜居彌歳。外無吏職之殷繁。内無賓客之俯仰。遺世之情。於是乎可庶幾矣。而獨坐於廓室之中。讀書詠詩。尚友古人以終日。或與二三親朋出遊。以託興山水之聞耳。一日佐君用晦。倶余登城南之山。極目江海之浩渺。馳神烟雲之杳靄。徜徉婆娑。以忘我矣。用晦正襟停盃。從容囑余曰。僕有書齋一區。退省之閑。聊所效邊孝之便腹也。而未有所名。請吾子擇言以名之、僕欲佩其言以爲絃韋也。余竊嘉其用心之不苟焉。乃許而歸。中宵索其名義。蕈思久之。乃得之矣。曰今之人。苟欲學聖人之道者。必自孟子殆。孟子存養之言。不一而足。曰養心。曰義氣。曰養性。皆所以明本然之善而反天理之全也。余謂寡欲所以養心。而養氣之功。可以馴致焉。至於存心養性。治其放心。則希聖之學。將無餘蘊焉。乃以三養名之云。且夫養之爲言育也。凡物不得其養則餒也。養牛馬以蒭菽。養鷄犬以粟肉。不獨禽獸爲然也。雖草木亦各有所養也。加之以陰滋爽塏寒燠高卑之宜。苟不若斯則不育。又何所求哉。人生之善也。所悦理義也。所樂孝弟也。誠以此養之。則必得其宜焉。而後天機油然。莫能之禦而已矣。若夫用心於外。隱情於中。義襲心正。而取快一時者。與吾所謂三養之術。相反也萬萬。盖仁義禮智根于心。所謂養者。養其萌蘖也已。誰伐基本根而求枝葉之暢茂者乎哉。嗚呼君子存養之功。有見於此。則可謂眞知其要領者也。是非余之臆説。乃先師之意耳。遂爲之記。