小寺遵路、字は與義、通稱は武兵衞・市郎右衞門。希光齋と號し、寳永四年青地禮幹その記を作れり。遵路六經に邃く、躬行實踐、終に室門七才の中に列せらるゝを得たり。只その詩文に至りては、能く見るに足るものなし。享保十八年七月二十七日歿する時年四十五。鳩巣の遵路を祭る文中に、彼を以て得易からざるの人と爲せり。 賦長松落雪兼呈坐客 高樓月色對孤峰。白雲當欄落古松。今夜英才人盡聚。詩成欲動五更鐘。 大地昌言、字は士兪、一字は行甫、通稱を新八郎といひ、東川・遜軒・毖齋・奚疑等の號あり。室鳩巣の外甥にして、學を好みて倦まず。六經を研精して義理を明晰にし、大學の微旨を剖析して説く所往々師鳩巣の右に出づ。昌言十二歳にして已に能く文を屬し詩を作り、光彩人目を奪ふものあり。 奉賀白石先生五十誕辰 武昌柳色映春臺。座上迎賓清興催。日暖金桃臨徑發。風微青鳥近筵來。樽前長對千秋嶺。花下頻傾萬壽杯。獨歩詩名人不及。高歌一曲見豪才。 是實に昌言が十三歳の時の作なり。白石之を得て歎賞措かず。曰く、大地神童賜ふ所の詩、清新雅麗、中に千秋嶺の字を用ふ。盖し老杜の語を取り、以て我が東都の鎭を賦するなり。點化精妙以て奇才と稱すべし。方今南北の詩賢賜ふ所、未だ嘗て此の事に及ぶものあらず。古人言へるあり、學問は必ず師友淵源ありと。漢の楊惲の一書逈かに當時の流輩に出づ。則ち司馬遷の外甥なり。老夫、神童の外舅に於いて幸に同門の舊あるを得、亦詩を賜はる。則ち知る、其の學淵源あるを。遂に來意を飜案して以て奉答し、兼て我が門の爲に賀すと。其の和韻の詩に曰く。 建安風骨鄴玉臺。七歩詩成敦爲催。冀北當年龍種出。襄陽此日鳳雛來。吟將西嶺千秋雪。勸作南山萬壽杯。子幼淵源今亦在。外家舊識馬遷才。 白石傲岸にして、人に下らざること徂徠と相匹す、而してその推稱すること此くの如し。昌言亦文豪なるかな。その遠逝は寳暦三年に在り、享年六十一。門人印牧直道・加藤惟寅等、その詩文を輯して奚疑齋遺稿三卷となす。 育王山賦育王山在賀越分界。俗呼醫王山 悲世俗之迫隘兮。吾將褰衣而遠征。遍探奇而究幽兮。登育王之崢嶸。路要眇而邃遠兮。循谿谷而紆縈。漱石上之浮湍兮。搴澗中之朝英。忽神怡而體靜兮。離紛濁而潔精。晨景儵乎溢光兮。蕩氛霧之杳冥。於是仰而望天宇。俯而察地形。斷崖千仭。彤壁翠屏。懸泉分流。恠石縱横。過浮雲而激日光。煥乎類列丹青。其陰則氷雪夏沍。其陽則草木春榮。神池湛湛深。止水漪漪清。蘭桂被涯。萑葦聚生。翡翠鳬鷖。嗈嗈和鳴。跨層崕而馮兮。臨遙風而披襟。左彌乎二越之郊兮。右接乎礪室之岑。窺守山於林抄兮。辧莊河於天濤。瞻州土之廓大兮。望喬木之森森。昔殷宗之明哲兮命傳説而作霖。虙子之在單父兮。廼不下堂而彈琴。身既安而民以寧兮。名聲著而至今。顧時勢之不然兮。毎於邑而傷心。夫醜人之齋戒兮。固上帝之所歆。雖蒭蕘之鄙言兮。亦明君之所欽也。思蘋藻之或薦兮。薦微衷之不見。忱懷眷眷其莫伸兮。歩逍遙乎中林。聞夕颷之迅發兮。見斜景於東皋。渉丘阜之逶迤兮。過村落於蓬蒿。幸有野人之激我兮。設松花之濁醪。揚浩歌之朗朗兮。奏雅琴之調高。付樂意於杯酒兮。聊終日而遊遨。