前田利實は吉徳の第四子なり。初め臣籍に下りて大音氏を冒しゝが、後に又前田氏に復し、梅郭と號す。利實經史に通じ、詩賦を好めりといへども、その作る所は澁晦暢びずして、意義貫徹せざるもの多し。明和三年五月二十四歳を以て歿す。 送杉浦守一赴東武 汝承令命出燕城。遙向長途百里程。聞説江山多勝事。風光殊起故郷情。 多賀元方字は直卿、鵬溟と號す。小松の人なり。前田吉徳の時、召されて侍醫となる。元方侯に從ひて、東都の邸に在るの日、詩を石島筑波に學び、又徂徠・春臺に就きて益を乞へり。 過臨川寺觀浦叟釣磯十二韻 靈蹤遇僧間。指顧此踟蹰。林樹籠烟靄。苔磯含露濡。峽間碧潭漲。嶺上白雲鋪。浮艇釣崖下。騎龍入海隅。坐觀樓閣美。始恠語音殊。識得龍宮界。豈同人世衢。歸來驚日逼。佇立嘆身弧。已秘神僊術。試開形貌枯。延齡那縹渺。歴歳且須臾。譚盡將相別。聞終編共呼。武陵擬漁父。渭水異呂徒。齊是垂綸業。何論賢與愚。 此の一篇、筑波評して、北地開闢以來未だ曾て見ざる所の傑作となし、順庵・鳩巣二老出づとも企及すべからずといへり。富田景周之を排して曰く、北地開闢以來何ぞかくの如き一佳作あらざらん。江都文人の輕薄阿諛此の類多しと。景周の筑波を責むること猶輕きに失せり。通篇冗漫平板、詩として見るに足らず。若し夫試開形貌枯といへる如きは、意義を爲さゞるの言、醤瓿を覆ひて可なり。