前田治脩は第十一世の藩主なり。政に勵み、學を務む。寛政三年國老奧村尚寛に命じて學校を興さしめ、四年二月兩校成る。文には明倫堂といひ聖經賢傳を授け、武には經武館といひ弓馬劍槍を習ふ。新井祐登乃ち命ぜられて明倫堂の學頭たり。是に於いて士人の就きて學ぶもの甚だ多く、郷學・私學も亦各地に起る。 春怨 簾外青々楊柳新。鶯聲花色入西隣。涙痕常濕錦帳下。空立庭前對晩春。 秋日獨坐 日暮重雲起。冥々細雨來。獨望北庭坐。風有鳴蒿莱。 前田齊廣の世は享和より文政に亙る。齊廣學を好み、才を愛す。文化五年大田元貞の吉田侯に仕ふるを懇請して之を聘し、六年天文學者本多利明、七年蘭醫藤井方亭を祿す。加賀藩に西洋學の起れるはこれを始とす。此の時長井平吉・渡邊栗・林瑜等を擢でゝ明倫堂學士と爲し、其の他富田景周・林翼・三宅邦・木下推の如き前代の遺老尚存し、大島維直・金子有斐・龜田景任・津田鳳卿等篤學の士は活躍の最盛期に在りき。文政四年齊廣市川米庵を祿して、その子齊泰の入木道の師たらしむ。米庵は寛齋の男にして、大窪詩佛等と共に大に宋詩の鼓吹に淬礪せり。當時又來寓の學士には海保鶴・浦上紀弜・梅辻希聲・齋藤弘美・安井敬英等あり。然りといへども齊廣の治世は學術の一般に普及したるに反し、宏材碩學の士に至りては漸く減じ、綱紀當時の如き異能ある學者は復望むべからざるに至れり。