柴原善、通稱七郎、若水と號す。藩の計吏にして算理に精しく、性讀書を好みて充棟の書を蓄へ、夙に敏學を以て稱せらる。新井祐登の前田治脩に聘せらるゝや、周易の古義を首唱し、一家の説を立つ。治脩乃ち善をして就きて學ばしめんとす。善祐登を以て賣卜の徒となし、業を受くるを欲せず。然れども君命拒み難きを以て暫く病と稱して出でず、刻意易を讀むこと三旬餘にして大に發明する所あり。乃ち祐登に詣りて弟子の禮を執り、質問辯難す。祐登大家を以て自ら處り、強辯して善を服せしめんとす。善益悦ばず、書を内臣某に上りて、祐登の心術陋劣敢へて師とするに足らざるものあるを以て、特立商搉して以て成就する所あらんことを請ふ。内臣書を斥けて受けず。善憤悶して退き、一夜窃かに家を棄てゝ遁る。近隣その異状あるを怪しみ、門を破りて入れば家財什器一も見る所なく、唯一歳の俸を堆積せるあるのみ。室内灑掃最も謹み、壁間一瓶の挿花と七絶の詩とあるのみ。その詩に曰く。 朝辭金澤任春風。此夕掛冠思不窮。既止與人言世事。煉丹會住白雲中。 後數年、加賀藩士某之を琵琶湖上に見るに、圊桶を擔ひて行けり。呼びて與に語らんと欲すれども應へず、終にその所在を失ふといふ。 長谷川尚之、又尚に作る。字は準也、通稱準左衞門、北固と號す。中西尚賢の門人なり。その學、力を極めて先賢の諸説を抄出し、陶冶して以て講述の資と爲すにあり。藩主前田重教の時、召されて侍讀となり、治脩の世に至り新井祐登の歿後、明倫堂都講となる。文化九年六月十九日歿、齡七十九。 玉階春草 久將薄命送居諸。草色春來接雨餘。總爲羊車無輾破。青々從是滿階除。