龜田章、字は純藏、通稱また純藏、鶴山と號す。金澤の藥種老圃なり。性情澹雅莊にして日を吟哦に送り、野村圓平・横山政孝等と相會して唱酬し、造詣する所極めて邃し。大窪詩佛の加賀に遊ぶや、章之を迎へて雌黄を囑す。既にして文政十一年京師に遊び頼山陽に師事し、山陽は之を待つに友禮を以てせり。章、山陽及び雲華大含と相携へて毎に旗亭に飮み、日夜妓を旅館に招きて詩酒の興を助けしむ。章また畫を善くし、最も墨梅に長ず。その詩稿を鹿心齋詩集といひ、山陽をして批評せしむ。山陽評隲盡くさゞるなく、加ふるに跋文を以てして之を返す。章天保五年九月二十四日六十七歳を以て歿す。後二年その子昭・その孫復、詩佛及び友人林瑜をして詩集に序を加へて世に公にせしむ。鹿心齋遺稿是なり。後四十七年、龜谷省軒及び清人王治本をして批評せしめ、更に之を出版せしむ。原詩四百餘首、こゝに至りて精撰して六十首とす。 過琴湖 淡靄秋容畫不如。琴湖恰好雨晴初。看他漁艇齊沿岸。芦荻舟中賣鯉魚。 寄懷山陽先生 一別悠悠商與參。負人節序去駸駸。沙川晩酌歡如昨。柳巷劇談情到今。曾擬將詩成事業。何圖抱病送光陰。遙知門外煙霞好。三十六峰春色深。 多々羅弼、通稱宗右衞門、號は西皐・夢鶴・摩呵散人、所居を四宜園と稱す。その先韓氏に出づるを以てまた韓弼と稱す。金澤の家柄町人にして、文化五年町年寄に任ぜらる。弼博識にして詩賦に長じ、四宜園詩集の著あり。天保九年二月二十七日歿す、年五十七。 陪從詩佛先生有感賊呈 應接秋光欲盡中。追隨却恨易匇々。談詩漫侑甕頭緑。侵夜頻摧燭火紅。歡樂猶勝當日興。吟哦或屬少年叢。人間離合元難定。何必後來還得同。 偶成 自覺年光次第新。醉中半過百年身。春風亦似無公道。故向人頭白了人。