篠塚荻浦は珠洲郡小木村法融寺の僧なり。幼より學を好む。初め京師に入り、摩島松南の門に遊び、頼三樹・廣瀬元恭と友とし善し。後江戸に至り、安積艮齋・野田笛浦に從學し、又齋藤竹堂と昌平黌に交る。常に外寇を憂へて措かず。屢伊豆に至りて江川担庵に接し、砲術を高島秋帆に學び、佐久間象山と同門たり。荻浦是より專ら梅防を講ず。荻浦の父之を以て僧儀に背くとなし、江戸より伴ひ歸りて寺務に當らしめしに、幾くもなく病みて歿せり、時に安政二年なり。 富岳 抉皆富山仰彌高。八朶扶蓉凌九霄。三州雲霞蒸大麓。萬岳千嶂皆繞腰。夜半日出重霧開。矯似金鳳張双翼。日落復看天尚明。翠壁千仭如拭璧。別有造化手段妙。帶雪風景亦更奇。田子浦上烏帽歌。三保回首老杜多。將軍遊獵青史傳。高士詩句白扇懸。山容不改人易老。滄桑幾變付茫渺。我舉此事問山靈。山靈不答山雪皓。 上記の外、藩末に生まるといへどもその歿年明治に入り、或は遠く大正に達し、以て漢文學流行の殿を爲しゝものあり。今便宜に從ひて之を附載す。 金谷善應、本姓は中村、諱は文義、初め仁州と號す。天保元年五月金澤に生まれ、同七年臨濟宗献珠寺に入りて僧となる。時の寺主を節外といひ、大鹽平八郎の門下なり。既にして善應廣瀬淡窻の名を聞き、往きて學ばんと欲す。節外その幼なるを以て許さず。善應乃ち逃れて淡窻の門に入り、從遊數年具に螢雪の苦を重ね、嘉永元年十八歳にして豐後の養顯寺に至り寺務を見しが、安政三年正月師節外寂したるを以て、歸りて献珠寺に任せり。而も貧寺自ら支ふる能はざるを以て、伽藍を官に納れて一小院に退き、兒童を集めて句讀を授け、以て糊口の資に充てたりき。善應年已に老い、徳亦高く、建仁寺の輪番に當り紫衣を勅許せらる。然れども辭して赴かず、明治六年四月寂せり。 在京。與竹中國香相逢。國香不知其郷人。問名。則以此詩答。國香時爲權參事 十六年前遊洛城。重來無復舊詩盟。可憐昇代沈淪客、懶向高人説姓名。