大島善、字は伯遷、通稱を善之介と稱し、後善太郎と改む。柘軒・七原又は稼亭と號す。桃年の子なり。幼にして家學を承け、嘉永六年家を襲ぎ、明倫堂助教となり、前田齊泰及び世子慶寧の侍讀となる。次いで慶寧の統を襲ぐに及び假教授に進む。文久以還國家多艱、藩侯父子西朝東覲して概ね虚歳なし。柘軒毎に隨從して陰に献替する所あり。既にして王制革新し、文學教師に任ぜられ、慶寧の藩知事となるや之に近侍して家記編輯の事を總管し、後金澤中學・啓明兩校の教師に歴任し、九年職を辭して東上するに及び、再び前田氏の侍讀となり、兼ねて家記を續修せしが、未だ業を終ふるに及ばずして歿す。時に明治十三年二月八日にして、享年五十四なりき。柘軒性温厚質直にして邊幅を修めず、常に襟を開きて人に接す。その學洛閩を純守して博く群籍に渉り、詩賦を好み、鐵筆及び音律を能くせり。口訥にして辯論し難しといへども、席に臨みて書を講ずるときは諄々懇到、聽者をして首肯せしむるものありき。 二喬讀兵書圖 繙去韜鈐倚綺樓。嬋妍相對互凝眸。誰知赤壁當年事。也有雙娥着一籌。 題楓橋夜泊 月落江村漁火明。篷窓幾度客眠驚。山鐘一入張公句。畫裡猶聞夜半聲。