大瀬直温、通稱を友作といひ、鈴嶂と號す。その學業は主として之を藩校明倫堂に得たる所なり。直温明治三年十一月を以て文學訓導に任ぜられしより後、諸學校に教鞭を執り、二十年九月第四高等中華校の興るに及びその教務を囑託せられしが、少時にして之を罷めき。直温性温厚篤實、詩文はその得意とする所に非ざりしも、尤も育英の業に長ぜり。後東京に上り、二十九年一月病みて歿す。 鶴見逵は憲好の子、初名は爲憲又は柄(タモツ)、字は卑牧、通稱小十郎、謙堂・丸橋又は古庵と號す。逵文政三年を以て生まる。初め明倫堂に就きて學び、弘化二年初めて江戸に上り、昌平黌に入りて佐藤一齋・安積艮斎等に業を受け、嘉永二年國に歸りて明倫堂訓蒙加人となり、五年訓導加人に進み、安政六年助教加人となる。萬延元年父の後を襲ぎて祿百四十石を食み、儒者に列し、文久元年明倫堂易學主付となり、安政三年以降小松修道館に勤務す。文久二年藩命じて京師に適き、土御門氏に就きて易學を修め、傍ら政界の形勢を探らしむ。逵爲に大に奔走する所ありしが、次いで藩論の忌む所となり幽閉せらるゝこと五年。明治元年宥されて復明倫堂の教師となり、三年權大屬に任じ、次いで官を免ぜらる。置縣の後文學教師たること數年、二十九年六月病みて歿す、年七十七。 澤田直温は天保七年五月を以て小松に生まる。幼名市太郎、後寛之助と改む。藩儒木下衡に就きて漢學を修め、維新の後東京に赴きて朝野新聞の編輯長となり、法に觸れて獄に囚はる。已にして前田氏に徴され藩吏編纂の事に與りしが、明治三十一年歿す。 獄中雜詩 九十春風半已過。花香柳影今如何。世間一刻千金夜。却是囚人暗涙多。 溽熱惱人囹圄中。夢魂難到廣寒宮。一窓西北僅通氣。不見玉蟾騰大空。 時當炎熱心身倦。欲寫愁腸無筆硯。思舊恍然假寢中。夢迷龍動水晶殿。