篠塚不著、珠洲郡小木村法融寺の僧なり。小樹又は葛庵と號し、宗乘の外好みて儒書を讀み、詩文書畫に堪能なり。著す所尾灣雜詩・閑居三十律・觀日對潮樓集等あり、其の稿本は皆同寺に藏す。不著天保十四年に生まれ、明治三十七年に寂す。 湧浦 水抱山圍風景眞。林巒曲々趁看新。温湯此地期治病。却作烟霞痼疾人。 靈泉沸自地中生。遠近人知湧浦名。關左休漫誇熱海。北溟有此似蓬瀛。 以上加賀藩の學者文人に就き述べ終る。これより更に大聖寺藩に於いて頭角を露したるものにつき記載すべし。 河野通英、通稱喜平次、號を春察・忘巷子又は晩翠軒といひ、剃髮の後益庵といへり。慶長十七年長州萩に生まる。寛永三年京師に上り、竹田定宜法印の門に入りて醫を學ぶこと三年、傍ら儒書を習ふ。既にして同八年江戸に至り、十年九月太田備中守資宗に仕へ、十一年正月林道春の門に入る。二月道春釋典の禮を行ひ、高弟十二人を選びて花有太平の詩を賦せしめしに、通英亦之に與れり。二十年七月朝鮮の使來りし時、通英朴進士なるものと唱和して文名大に擧る。萬治二年通英太田侯の仕を辭す。寛文四年前田利明聘して祿二百五十石を給し、次いで三百石に増す。延寳三年四月八日歿する時年六十四。 河野通尹、通稱新丞・四郎兵衞・三左衞門。初諱は通智、環翠軒と號す。通英の次子にして家學を受け、二十二歳にして久世大和守廣之に仕へ經を講ず。延寳四年六月大聖寺藩に來り仕へ、父の遺知三百石を受く。爾後利明・利直・利章三世に歴仕し、正徳四年七月六十九歳を以て歿す。 草鹿玄伸、字は伯省、北軒と號す。家世々藩醫にして二百五十石を受く。玄仲詩文を能くし、河野通尹と互に唱和し、北軒稿の著あり。正徳五年六月十九日歿、享年七十。