那古屋良富、通稱平太郎、後に一學と改む。學を大幸岱畎に習ひ、延享二年家を續いで祿七十石を受け、明和七年十一月四十歳を以て歿す。良富詩文を能くし、那古屋先生文集一卷を遺す。 前田信成は大聖寺藩の侯族にして、初名を利擧といへり。信成大幸岱畎を師とし、專ら孝悌雍睦を主として浮靡の學を好まず。傍ら武技を好み、劍鎗弓馬皆その妙を得たり。寳暦十一年請ひて藩臣の班に下り、安永五年十月朔日四十三歳を以て歿す。文政八年藩主前田利之、信成の子信片・孫信任をしてその遺稿を拾輯せしめ、自ら序文を作りて太一遺稿と題し、刻して世に傳ふ。 學戒 世之爲學者。淫荒詩賦文章以巧文其外。又不修其道。以妄好聲聞。尚辧才。矜高議。事文華。競織巧。訿訿然誇于世俗之間。近世儒佛者流。其弊同之。遂令道心喪驕氣旺焉。是蓋浮華之學也。外不明其道。内不養其徳。所謂記聞之學。不足爲人師者也。能遡道徳之本源。袪浮靡之虚飾。當講修己治人淑身善天下之道矣。苟不出于此。其教其學。不爲識者所淺嗤者幾希矣。學者不擇所學。偏事文辭浮靡之務。而不達有用之實者。非可耻可惡之甚乎。 樫田玄覺、諱は命平、東巖と號す。若くして京に遊び、本草を松岡玄達に學び、寳暦三年養父道覺の歿後その家を襲ぎて十人扶持を給せられ藩醫となる。玄覺亦經學に達し、詩歌俳諧を好み、配千代も學才ありて可吟と號し和歌を能くす。玄覺安永七年七月二十九日江戸より歸途越後に於いて病歿せり。享年六十四。 樫田命眞、通稱は順格、字は伯恒又は君岷、號を北岸又は竹隱と稱す。瓶花庵・澄碧堂は所居の名なり。命眞儒醫共に之を父玄覺に習ひ、特に博識洽聞の名あり。その詩は、初め諼園の餘弊を受けて盛唐の格調を慕ひしが、後袁中郎の集を讀むに及び、前日の非を悟りて專ら反正の業を唱ふ。當時江戸の山木北山亦反正を叫べりといへども、その首唱を爲したるは實に命眞なりといふ。命眞多技多能、禪に參して堂に入り、書畫を能くし、茶事挿花を解す。父の後を承けて大聖寺侯の侍醫兼侍讀となり、侯の江戸に赴くや常に之に從ひて文人墨客と交を結べり。寛政六年八月二十一日病みて歿す、享年三十八。その著瓶話は花技を説き、詩文には瓶花庵集・旗山集・日本樂府既に世に行はれ、鹿嶼集・澄碧堂集・奧山紀行・本草餘録・續大東世語等は未だ梓に上らず。 齋中偶題 身世如何兩可忘。逍遙不若學蒙莊。春來記去千花史。夜座焚殘百和香。荒逕無人詩是友。寒厨有酒醉爲郷。清閑欲獲新奇句。時倚西窓睡一場。