岡村義比、初諱は義房、通稱五百木、字は伯康、琴臺と號す。家世々藩の輕卒なりしが、義比は發奮して學を勵み、安永三年近習役となり、文化六年新知五十石を給せらる。その師承は詳かならざるも詩書畫並びに之を能くし、又音樂を好めり。文化十三年十二月七日六十二歳を以て歿す。詩集に東征筆乘あり。 大田元貞、通稱忠藏・才佐、字は公幹、錦城と號す。大聖寺侯の侍醫樫田玄覺の七男にして、命眞の弟なり。天明三年元貞十九歳にして、越前府中の市醫縣道策の家に養はれしが、翌年去りて江戸に上り、儒を山本北山に學ぶ。既にして元貞北山を棄てゝ自ら研竅し、錦城雜録・飛耳張目編等を著して名聲忽ち揚る。水戸侯之を聞きて聘せんと欲せしが、適〻沮むものありて果さず。後吉田侯幣を厚くして之を招き、世子の爲に書を講ぜしむ。文政三年元貞暇を請ひて京師に遊ぶ、搢紳學士皆敬服せざるなし。是に於いて加賀藩主前田齊廣は、錦城が封外の賓師たるを惜しみ、遂に吉田侯に請ひ、祿二百石を賜ひて頭並に班せしめ、別に役料百石を與ふ。これ實に五年八月十四日なり。八年四月二十三日江戸に歿す、年六十一、疑問録・九經談・大學原解・中庸原解・梧窻漫筆・春草堂集等の著書甚だ多し。 新柳 裊裊金衣亂曉風。粧春不讓百花功。細雨淡烟眠熟後。纖腰輕舞夕陽中。 大田錦城筆蹟石川郡野々市町舘八平氏藏 大田錦城筆蹟 兒玉愼、字は士敬、通稱三郎、旗山と號す。父は大聖寺藩士兒玉仁右衞門諱は雙、正智流の槍術指南なり。愼享和元年四月十六日に生まれ、二十六歳にして京師に出で、頼山陽の學僕となる。山陽頗る其の材を愛し、心力を傾倒して之を教へしに、遂に帷を下して諸生に授くるに至れり。山陽歿後、愼師の爲に、その書後題跋を集めて一卷となし、之を世に公にす、愼の筆跡は山陽に酷似し、款を蔽ひて人に品せしむるときは、皆以て山陽の書する所とせり。天保六年正月京に歿す、年三十五。門生相謀りて山陽の墓側に葬る。 晨起 鳥譟熹微中。曉星光髣髴。家家汲井水。轆轤聲軋軋。從容東軒下。牽牛花如綴。噫我常晏起。夜讀纔補闕。無愧清露晨。此花競先發。今日偶早起。頓覺襟懷濶。已拂書案淨。悠然見日出。