下りて寶暦・明和の頃に至り、田中式如の義子朋如あり、文才煥發、古語の語原的解釋を試み、倭語拾補十五卷を撰す。その説穩妥にして、貝原益軒一派の語原論に似ず、最も貴重すべし、而して朋如の門下菅野恭忠が、音韻の學をこの地に流行する謠曲發聲の理に應用して、謠要律を著したる如きは、最も學問の郷土化せるものにして頗る珍とすべし。後に堀麥水が謠曲註釋の書を著して寶生流謠曲諺解察形子といひ、佐久間寛臺が終にその内外四十二卷を大成して謠言粗志と題したるも、亦同一傾向の發露なり。 同時に津田政隣あり、文學の才に富み、精勵無比、藩初以來の諸家の記録を通覽して、その事蹟を抄録し、また自ら聞見する所を記して世に遺せり。藩史を研究するもの必ず之を讀まざるべからず。また富田景周あり。和漢の學を該ねて等身の書を著しゝが、就中國文によりて記されたるものには、雅文になでしこあり、教訓の書に下學老談あり、一世の名著越登賀三州志も亦通俗文を以てせられたり。湯淺祗庸も亦或は加賀藩に關する史實を輯め、或は職掌に關する沿革を編したるもの多し。蓋し加賀藩の史學に於ける、文化・文政を以て前後無比の盛時となす。景周の歿後に生まれたる史家に森田柹園あり。終生營々として藩史の探討に沒頭し、著述の多きこと景周を凌駕し、研究の範圍と方法とに於いて亦一段の進歩を見る。柹園の後半生は遠く明治に及び、後の學者皆その餘慶を受く。 文政・天保の頃に奧村榮實あり。老臣にして前田齊泰の知遇を受け、藩校明倫堂の總奉行となる。榮實和漢古今の書通讀せざることなく、著書甚だ多し。その古言衣延辮は音韻の考證に屬するものにして、國典異證は神祇の事を論じたるものなり。曾て富士谷御杖を招致して益を請ひたるが如き、彼も亦加賀藩の末期に於ける國學功勞者の一人なりといはざるべからざるなり。天保元年言靈派國文學の泰斗望月幸智、その學を宣傳せんが爲金澤に來る。こゝに於いて彼の門に入るもの市を爲し、就中成瀬正敦・前田典義・寺西秀周等最も顯る。幸智の學は、本居宣長・平田篤胤に對峙して一旗幟を樹立し、一音一義の説によりて神典を解説せんと企圖し、先づ之に對する言語活用の法を新案し、文法を改造したるものにして、入門の士には神文を立てゝ後之を傳習せしめき。かくてその説く所一時天下を風靡せしかば、五十嵐篤好の如きも之を中村孝道より受けて尊信最も厚かりき。篤好は越中の農吏にして多く金澤に住せしものなり。天保の頃橘守部・鈴木重胤亦來り遊び、士人にして神典を問ふもの多し。重胤の學は自ら一家を爲し、名聲平田篤胤と相頡頏す。我が石黒千尋・石黒魚淵等その門下に屬せり。