かく藩外學者の來りて國學研究の必要を鼓吹し、士人の漸く覺醒したる時に當り、外國との交渉大に緊密を加へたりしかば、我が國體の由來に關して反省すべく、益古書を繙くものあるに至りたりき。是に於いて藩校明倫堂に在りても、嘉永五年六月その教科として皇學講釋を加へ、田中躬之・石黒千尋をして講師たらしめ、狩谷鷹友・高橋富兄を以て補助とし、古事記・日本書紀を主とし、藩翰譜・常山紀談・肥後物語・常陸帶等を講本とせり。葢し藩校創立の際皇學の目ありしといへども、その後儒學に偏して國典講演の設自ら廢れたりしを、こゝに至りて再興したるなり。然るに士人の聽講研究するもの甚だ少かりしかば、鷹友等之を慨して屢書を藩に上り、皇學の我が國體を闡明し、忠君愛國の志念を發揮するに必要なる所以を論じ、以てこの學科の隆盛を期せり。その文辭慷慨にして悲痛、人耳を聳動せしむるに足るものあり。而も督學加藤甚左衞門等之が深意を解すること能はず、鷹友等の計畫も遂に曖眛の中に葬られ了りき。但しかくの如きは當時の明倫堂に於ける一般状態にして、登校聽講するものゝ寥々たりしこと單に國學のみにあらず、儒學に在りても亦略相似たりしなり。然るに民間にては之と異にして、師を擇びて皇道を聽き、若しくは自ら國書を讀みて發明するものあり。彼等は皆幕府と天朝との兩立すべからざる結論に到達し、萬延の頃初めて勤王論を唱ふるを見るに至れり。是を以て藩中多數の士人が尚佐幕を是としたりしに拘らず、元治元年世子前田慶寧の京に入るに及び、憂國の士等長藩の爲に奔走斡旋する所ありしが、事遂に志と違ひて刑に就くもの多かりき。而して是等の中大野木克敏・青木秀枝・高木有制は、實に國學講師田中躬之の門より出で、主謀の一人不破富太郎は平田篤胤の著書に心醉する人なりしなり。