先に論じたるが如く、加賀藩治の最初期に在りては、加能の地尚未だ奎星の光芒を發するに至らざりしといへども、獨和歌に於いてはその片影を認め得ざるにあらざりき。即ち藩祖前田利家が、後陽成天皇の行幸に豐臣秀吉の聚落第に陪從して和歌を奉献したるを初とし、同時に利長も亦その詠什を叡聞に達せしあり。利常に至りては之を好まざりしが如しといへども、その子光高は中院通村及び烏丸光廣に就きて學習し、その夫人清泰院は最も堪能の譽ありしといはる。中世以後に在りても、藩侯重煕が梅松百首の詠歌を小松なる菅公の神廟に奉献せる、重靖が一品有栖川親王に師事してその奧妙に達せるなど、皆和歌の奬勵に與りて力ありしを疑はざるなり。 されば士人に在りても、利常の時に當りて今枝直重・安見元勝・澤橋兵太夫等あり。綱紀の時には庄田正守・竹田忠種・多賀直秀・原元寅・山本基庸・大野木克明・葛卷昌興・成田明遠等あり。吉徳の時以後竹田昌忠・原元慶等あり。前田直躬も亦政務の餘暇を以て花鳥風月に悠遊せり。然れども是等錚佼を以て稱せらるゝ歌人も、亦天下の趨勢を脱すること能はず。概して古今集の格調を標識とし、師傳の外また一歩を出でんと期するものあらず。唯本居宣長の出づるに及び、その學風遠く北陲に達したりといへども、之が末流を汲むもの、多くは新體を喜び奇巧を衒ふのみにして、吟誦に足るの作歌あるものなかりき。