然るに文政の末富士谷御杖の來るや、奧村榮實・五十嵐篤好之に學びて萬葉調を詠じ、天保中橘守部の金澤に寓するや、大友粂滿・石黒千尋等之に就きて守部獨自の歌調に倣ひ、斯界將に活氣の横溢せんとするものありき。この時恰も田中躬之の賀茂季鷹に學び、歸りて帷を金城に下すあり。躬之の主張する所亦古調を復興するに在りて、雄渾にして典雅を失はず。是を以て門人忽ち雲合霧集し、その俊秀なるものに山下清臣・狩谷鷹友・三輪照寛・淺野屋佐平・高林景寛・高木有制等を出せり。明治歌壇の宿老高橋富兄も亦同窓に學び、而して最も生を長くせるものとす。思ふに加・能二州の地、藩初以來漢文學の流行甚だ盛なりしを以て、漢詩を以て自ら高しとせしもの少からずといへども、歌人に至りては寥々として晨星の如く、その稍頭角を露したるは、躬之にあらずんば躬之の門下にあらざるはなし。されば躬之は、實に加・能に於ける空前絶後の歌人を以て推すべきものたるなり。 連歌は、徳川幕府に於ける年中行事の一にして、毎年正月城内連歌の間に於いて之を興行するを例とせり。されば列藩諸侯をして連歌師を招聘せしめ、亦自ら之を學習するの勢を馴致せしめたること固より論を待たず。 慶長元年前田利家白山比咩神社の堂宇を修理せしが、是より先藩士北村三郎右衞門入道宗甫は白山神が千句の連歌を求め給ふの靈告を得たり。その後遲々して行はれざりしも、同十年以降十二年に至る間に宗甫は鷹栖久左衞門明宗と謀り、百韻十卷を賡和し、五百二人の名を列ねて之を献れり。この連歌は、現に傳へらるゝ加賀藩最古の連歌たる點より見て頗る尊重すべきものなりとす。萬句連歌十卷中九卷の詠草は、今尚白山比咩神社に藏せらる。 此千句は、ある夜の夢に、白山の神前におゐて千句の連□□□□□しく、末の人かけ勸進してこそと申句を見奉しを、いろりのまみずみしてしやうじに書付侍りぬ。然處に翌日大納言利家卿御在洛之比、東の御方より白山の堂社ども破壞しける事かなしびにたへ給はず、いそぎ再興せよと御使ありしにこそ、あやしき夢想なりけれと人みな申されし。されば御奉加ども數をつくされし。しかはあれど末の世の衆生、えんをむすばしめんたよりにもやと、御あづかりの國〱たかきいやしきをすゝめよとの事、波着寺安養坊空照法印に命ぜられ、いく程なく造立の事になりぬ。山々の杣木どもあまたなりしかど、あるは直き木にもまがれるふしをえらび、あるは中虫ばみなどして材に用られず。かさねて深き山をもとめられしかば、月日をへて其年成就しがたかりしに、俄に大雨しきりにして洪水ありしに、白山の口より大なる浮木一本、神主の門のほとりにながれよりぬ。木のみちたくみつかさなどに見せられしに、よき材なりとて御寶殿の前柱に用られしにより、則造畢せし。慶び長き元の年丙申の秋廿日あまり七日と申に遷宮有し也。其折から此事とりおこなひ奉るべかりしを心ならず過しもてこしに、今度又夢のさとしめなどあるにより、人かずをあつむるもこと〲しければ、ひそかに鷹栖久左衞門明宗を□□□□□なる心〱を、五百二人のことの葉につゞり、御寶殿にこめ奉りぬ。かたはらいたき事共なれど、神慮にまかせ嘲哢をもかへり見□□□□□國土穩にして□□□□□□□久の奇瑞なるべき也。 于時慶長十年[乙巳]九月廿七日北村三郎右衞門入道宗甫 〔白山比咩神社文書〕 ○ 慶長十二年正月四日 万句之内 江守半兵衞 遲櫻 賦二字反音連歌 よしや花ちらば散また遲櫻隆之 霞たなびく山の遠方可郷 長閑なる月は軒端に移ひて一致 眞木の戸ぼそを明ぼのゝ空城運 陰高き竹の林の鳥の聲佳康 いづくともなくいそぐ旅人乘影 出る日の雲のひま〲さやかにて榮信 時雨過行跡靜なり正成 (下略) 〔白山比咩神社文書〕