是等の類甚だ多し。上の好む所既に此くの如くなりしかば、利家の臣赤座吉宗、利常の臣今枝重直・澤橋兵太夫、綱紀の臣淺井政右・青地等定・赤座孝治・竹田忠張等、相競ひてこの道に沒頭するに至れり。殊に脇田直賢は、文祿の役本邦に伴はれたる朝鮮人にして、我が文化に浴し、遂に連歌をすら弄するに至りしもの、頗る奇とすべきにあらずや。而して直賢の門より出でたるものに板津檢校あり。寛文八年九月藩侯綱紀の爲に、その武運長久を白山比咩神社に祈請し、獨吟法樂百韻を詠ぜしもの亦今に存す。 社寺に在りては、連歌の興行を恒例とし、以て神慮を慰むるもの漸く起る。寛永六年利常、金澤淨禪寺を玉泉寺と改め、寺僧其阿南水に命じて月次連歌を奉納せしめ、連歌料十二石を下賜し、明暦三年利常亦菅廟を能美郡梯村に營み、京師北野天滿宮の社僧能觀・能順・能悦を招きて、遷宮の連歌百韻を次がしめ、後能順を擢でゝ別當に任じたるが如きもの是なり。梯天神の月次連歌は、この年八月二十五日に興行せられたるを以て濫觴とす。 明暦三年八月二十五日賦何田執筆北野能觀 千代の秋神や告けん松の聲利常 天滿月のすめる瑞籬綱利 水清き御池に浮ぶ霧晴て利次 砌に羽ぶく鶴あまたなり利治 光さす眞砂の上や廣からん惣代 そゝぎし雪の朝氣靜けし能順 雨の後軒端の竹の風過て孝治 釣簾卷上る紐のすゞしき直賢 (下略) 〔穩樂齋隨意集〕