堀麥水の著三州奇談に據れば、淺井政右・法橋能順・惠乘坊快全を以て、當時に於ける連歌の最も達人なりとせり。政右は士人にして、綱紀に仕へ小將頭たり。能順はその名最も著れ、仙洞より御硯の恩賞を受く。快全は一名を石良といひ、元祿十五年菅公の八百年遠忌に當れるを以て、玉泉寺の廟に參籠し、七晝夜を期して獨吟千句を連ねたりといふ。かくて連歌は、一時甚だ旺盛を極めたりといへども、後詩賦と俳諧との流行に壓倒せられて漸く衰滅することゝはなれり。 狂歌は、元祿・寶永の比服部元好の出でたるを最も早しとし、享和・文化に及びて堀越左源次あり。二人皆一時名を坊間に馳せたりといへども、その調卑俗未だ堂奧に達せりとすべからず。葢し藩政の時落首の行はれしこと頗る盛にして、而して落首中には狂歌を以てせるもの甚だ多し。元好・左源次の如きは、亦それらの徒の稍巧妙なるものと見るべし。然るに藩末に近く藤田鈴丸あり、醫を以て狂歌を能くし、名三都に聞ゆ。又市人西南宮鷄馬あり。蜀山人等と風交を結び、その作る所輕妙洒脱にして而も風韻に富み、能く狂體の眞面目を發揮せり。鷄馬の門人亦多く、斯道の流行この時を以て絶巓とすべし。その頃江戸の狂歌師芍藥亭長根、本名は本阿彌光恕、光悦七世の末裔を以て刀劔鑑識を業とし、加賀藩の祿を食みしが、その金澤に來るや僑居數月、同好者の之が爲に刺戟せらるゝ所少しとせざりき。 稗史小説の最も古きものには、加府片隅乞色軒復禮と署名したる極死善色あり。間々方言を交ふといへども、行文八文字屋の文體に倣ひ、妙味時流に超越す。極死善色の内容は、覃人戸水屋善兵衞と妓古今とが金澤犀川の法島河原に情死したることを記し、骨子を事實に採りたりといへども、構想に波瀾あり文章に起伏ありて、頗る苦心の跡を認め得ざるにあらず。その標題に就きては序文に、『善の字から思ひつき、守死善道と、それは誠の君子の教、今日の戸善は死を極めて色を善くすといふものなれば、極死善色と名付く。』といへり。この書に、戸水屋善兵衞は釋宗智と諡して專光寺に葬られ、古今は心窻了夢といひて法然寺に墓を築きたることを載す。是を以て今法然寺に就きて調査するに、心窻了夢が享保十六年四月四日を以て死したることを知り得たり。本書の成れる時代と文體の因りて來る所を察すべし。今その一節を擧ぐ。