第二世前田利長また和歌を詠ず。後陽成天皇の聚樂に幸し給ひし時、利長宴に侍して和歌を上る。利長は筆札を尾張荒子村觀音寺の僧全蓮に學びて能くせり。 寄松祝 かぞへ見ん千歳をちぎる宿にしも松に小松の陰をならべて 池水久澄 みぎはなる松をためしに池水の緑も千代の色をそふらん 第三世前田利常の和歌は多く之を見ず。一書に左の詠を掲ぐるものあり。 題しらず 直き世に五つの道をしるべにて六つのちまたに何迷ふらん 多賀秀種、初め豐臣秀吉に仕へ、元和元年來りて前田利常の臣となる。秀種博覽強記にして和漢の書に通ず。關ヶ原の役に西軍に與し、罪を獲て越後に謫せられ、越後在府日記三册を著す。その書得るに從ひて記し、凡そ一百三十八章、語釋と教訓歌とに及ぶもの多し。元和三年歿す。 今枝重直、通稱を彌八といふ。豐臣秀吉及び秀次に仕ふ。後前田利長の召に應じて來り仕へ、元和二年致仕して宗二と號す。重直和歌を能くし、佛乘に明らかなり。寛永四年十二月歿す、年七十四。 安見元勝は右近と稱し、後に隱岐と改む。寛永十年罪ありて能登島に謫せられ、數年を經てその地に歿す。元勝和歌を能くし、書に巧なりき。