澤橋兵太夫は宇喜多秀家の長子八郎の乳母の子なり。成童にして書を讀み、和歌を詠じ、頴悟衆に異なり。前田利常二百石を以て之を召す。後致仕して僧となり、常珍坊と改む。その江戸に在るや、堺町に僑居し、青樓と相隣る。常珍坊人の介する所となり、娼家に至りて源語を講じ、強ふるに任せて酒を御し肉を啖ふ、而も汚行なし。寛永の末金澤に歸り、還俗して再び利常に祿せらる。 村井長明、長頼の次子なり。初名重頼。幼より前田利家に近侍したるを以て、時々筆を採りて利家父子の善政嘉言を録し、後に題して陳善録・象賢紀略といへり。二人の偉績にして今日に傳はるもの、長明の力に待つもの多しといふ。正保元年歿す、年六十三。 前田光高の文學上に於ける功勞は、已に之を漢文の條に述べたり。光高また國文を好み、自ら著作する所多し。就中一本種は、優美なる國語を以て綴り、伊勢神宮の御師との問答に擬して、喜怒哀樂愛惡慾の七情を論じたるものとす。その冒頭の文は即ち左の如し。 竊に天地のことはりをおもふに、行としてかへらず。なす事なうして成は造化の妙か。一年のうつりかはれる中に、先春のそらは、そこはかとなくうちかすみてうらゝかなるに、鶯の初音を告るより、枝にこもれる花も、ひらき出る谷の戸ぼそまで時をしりぬ。おしみなれぬる花は根に、鳥は古巣にかへりつくせば、夏の衣に立かへたる青葉の山も、いつしか露に色づきわたり、手もたゆくならす扇の、おき所もわするばかり、荻の上風身にしみ、おのがさま〱鳴みだるゝ虫の音に、月もいとゞ物あはれにて、暮行秋ををしかのふしどあらはに、散はつる木葉は霜にうづもれ、春秋のながめも、ひとつしろたへの雪とふり行まゝに、年もやう〱立かへりなむとす。これたがなせる所ぞ。中比の事かとよ、ある人有けり。なにはの事、よしあしにつけて心にまかせざりければ、わがふるさとを立はなれ、世のくるしみをのがれん所やあると、國より國にわたり、住所もとめけれど、いづくもおなじうき世なれば、心のすみはつべき所もなくて、神風やみもすそ川の、きよきながれをたづねより侍れば、まうづる人々、貴賤老少となく、道もさりあへず所せくぞみゆ。人々の心のうちに、何のねがひがさま〲ならむと、おしはかられて、うちながめられ侍る。(下略) 〔一本種〕