脇田直賢、朝鮮の人金時省の子にして如鐵と號す。文祿の役、宇喜多秀家之を擒にして歸る、時に年七歳。秀家の夫人前田氏之を憐み、その母たる利家夫人に送りて養育を託せり。長ずるに及び、利長之に祿を與ふ。直賢、利常・光高及び綱紀に歴仕し、學を好み文を能くし、連歌に長ず、その利長の遠逝を悼む句に、 四方はみな袖のあまりの五月かな 又光高の卒せし時の句に、 花はちりて日々になげきの茂りかな 綱紀の生髮を祝する句に、 いたゞくや千年初の霜の松 等の吟あり。又歌道を好み、古今集の講説を一華堂如見より受く。萬治三年七月歿する時年七十五。 赤座孝治は吉家の子なり。吉家は前田利家に仕へ、連歌を能くし、孝治は利常に小松城に隨ひ、慶安二年致仕して如閑と號し、萬治三年歿す。孝治亦連歌に長じ、且つ能書を以て聞ゆ。その白山社頭にて詠ぜし歌に、 神の世のはじめをこゝに白山の社に來つゝたのむゆくすゑ また京師に在るの日、叡旨を以て御題武藏鐙を賜ふ。孝治乃ち、 一聲は武藏鐙かほとゝぎす の句を奉りしに叡感淺からず、内旨を傳へて帛に鐙を綉したるを下し賜ふ。子孫之を秘藏せりといふ。 佐々木定治、寛永六年來りて前田利常に仕ふ。その著に大坂聞書一卷あり。萬治三年致仕して道求と號す。 青地等定、初諱定好、又定延、父に嗣ぎて四郎左衞門と稱す。元珍の養ひて子となす所なり。寛永二十年前田綱紀の生誕に先だち、父光高夢中に『開くより梅は千里の匂かな』の句を得たり。句意極めて吉。乃ち臣僚を招きて連歌の會を爲し、之に賡がしむ、等定又召されて之に與る。百韻中定延と記さるゝもの即ち是なり。寛文五年歿。