田中一閑、名は宗得、平安の人なり。家を擧げて江戸に移り、吉川惟足の門に入りて唯一神道を學び、遂にその秘蘊を受け、寛文六年保科正之の薦によりて前田綱紀に仕ふ。惟足の家に牡丹花肖柏の眞蹟なる古今傳授書一筐あり。一閑之を得て綱紀に上る。加賀藩に古今傳授あること是に基因す。一閑貞享二年八月江戸の藩邸に於いて、始めて古事記神代卷を講ず。侯群臣をして陪聽せしめ給へり。是より毎月之を講じ、以て恒例となる。元祿十三年歿す。 田中式如、字は玉之、恒齋と號し、通稱を左源太といふ。備前岡山の人にして、本姓は松浦氏、初め池田光政に仕ふ。已にして辭して江戸に出で、吉川惟足の門に學ぶ。田中一閑之を見てその才を愛し、請ひて子養す。式如後神樂岡に上り、卜部兼敬に就きて唯一神道を受け、弘才を以て世に鳴り、貞享二年前田綱紀に祿仕す。その著に恒齋隨筆・立言源委ありて世を稗益する所多し。享保十九年七月金澤に於いて歿す、年七十五。貞簡先生と諡す。式如嘗て伊勢物語に就き、諸家の舊註を稽へて自説を立て、その解釋考證を試みて秘本とす。亦音韻の學に精しく、倭語小解五卷の著あり。その説く所妥當順正にして、奇恠に走らず、獨斷に陷らず、眞に學界に於ける好著なり。式如歿するに臨み秡除の詞を誦し、畢りてその子朋如をして永訣の和歌を書せしめき。その歌に曰く、 世の中の稀のたまのをかぞへ來て今いつときの入相のかね 山田四郎右衞門は加賀藩の宰領足輕なり。四郎右衞門好みて史乘を讀み、自ら三壼記十四卷を著す。その記する所鎌倉室町の簡單なる叙述に初り、信長・秀吉・家康に至りて漸く詳密の度を増し、その中おのづから前田氏の興起を尋ね、遂に殆ど加賀藩のみの記事となり、利常薨去の時に至つて擱筆す。後世分かちて二十二卷とし、越登賀三州志以前に在りて藩の通史に先鞭を着けたるものなり。四郎右衞門元祿中八十六歳を以て歿す。